Q&A(よくある質問)1
このページでは、これまでに寄せられた質問にお答えします。
他力信心とは何か
Q 「獲信者とはどのような人ですか?」
獲信者という言葉を初めて聞きました。獲信者とはどのような人ですか?
A疑蓋(阿弥陀仏の本願に対する疑い)が外された人のことです。阿弥陀仏の本願を疑い無く聞ける人であり、「他力信心を得た人」「信心決定した人」などとも呼びます。これは阿弥陀仏に疑蓋を外してもらうことを「獲信」「他力信心を得る」「信心決定」と表現するからです。
下の図のように、蓋(フタ)が邪魔をして暗かった場所に、光が入ってきた状態です。疑いの蓋が取れたことで、阿弥陀仏の本願を疑い無く聞けるようになったのです。
有名な獲信者といえば、法然聖人・親鸞聖人・蓮如上人・妙好人などで、いずれも阿弥陀仏によって疑蓋が外された方々です。逆に、まだ獲信していない人のことを未信(みしん)と呼びます。
現代でも探せば獲信者は見つかります。浄土真宗の僧侶だけでなく、一般人にもいます。浄土真宗の寺院にお参りして探したり、インターネットで探すこともできるでしょう。
Q 「他力信心を頂いたら(疑蓋が外されたら)どうなるのですか?」
他力信心を頂いたら(疑蓋が外されたら)どうなるのですか? 獲信者と未信者との違いは何でしょうか?
A仏願の生起本末を疑い無く聞けるようになります。「念仏となえる者を極楽に生まれさせ、成仏させる」という仏願が、そのまま聞けるようになるのです。
それはつまり、自分は極楽に生まれ仏になるのだ、という境涯に入ることになります。これを入正定聚(にゅうしょうじょうじゅ)と表現します。正定聚とは仏になることが確定した人々ということです。そして獲信した人が未信に戻ることはありません。
これによって六道輪廻の問題が解消されます。つまり死後に対する不安が解決されるということです。
もう一つの特徴として、他力信心は何があっても動搖することがありません。分かりやすい例え話で説明しましょう。たとえば、歴史学者によって「浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は架空の人物だった」と証明されたとします。
その場合、自分の宗教心や知識にたよって信仰している人は、信心が大きく動搖するでしょう。なぜなら親鸞聖人に対する尊敬や歴史の知識に頼って信仰しているからです。その信仰の基盤が「架空の人物だった」ということになると、架空の存在の上に立てられた信心はたちまち崩れてしまいます(次図)。
(歴史的な前提が変わったことで、信仰も崩れ去る図)
しかし獲信者は違います。たとえ親鸞聖人が架空の人物だと歴史学で証明されても、もしくは浄土真宗の教義は間違っていると大勢の人から批判されても、他力信心が崩れることはありません。その理由は、疑蓋が外されたことで阿弥陀仏と直接つながったからです。
(自己の宗教心や知識が崩れても、他力信心には何も影響が無い)
上図のように、人間側の宗教心や知識が動揺したとしても、他力信心は影響を受けません。
阿弥陀仏と直接つながることで、その他の出来事は無関係になります(上図)。本質的に何があっても崩れることがないため、ダイヤモンドのように固いという意味で「金剛心(こんごうしん)」とも呼ばれます。
Q 「妙好人はなぜ死後に対する不安が無かったのでしょうか?」
妙好人のような「いつ死んでも大丈夫」と言える人生に憧れています。妙好人はなぜ後生(死後)に対する不安が無かったのでしょうか?
A後生の問題について阿弥陀仏に全てまかせていたからです。妙好人の言行録を読むと、いつ死んでも大丈夫だという安心感を得ていたのが分かります。彼らの境涯を図にすると以下のようになります。
上図のように、死ぬと同時に極楽浄土に生まれて仏になるという世界に住んでいたわけです。そのため妙好人たちは「死んだらどうなるのだろうか、悪い世界へ行かないだろうか」というような、死後に対する不安を持つ必要がありませんでした。
ただここで気をつけなければいけないのは「死後に対する不安が無いからといって、必ずしも獲信したわけではない」ということです。死後に対する不安だけならば、無神論などの哲学でも解消できるかもしれません。しかし妙好人たちは、六道輪廻の問題を解決してもらった(成仏のタネをもらった)ことによって、死後に対する不安を持つ必要がなかったのです。つまり本当に大切なのは、死後に対する不安があるかどうかではなく、成仏のタネをもらったかどうか、ということです。
また彼らは、自分が煩悩と罪悪にまみれた凡夫であるという認識を持っていました。「自分のような凡夫が仏に成らせてもらえるとは、なんと有難い」「毎日罪悪を犯し続けている自分の代わりに、法蔵菩薩が仏道修行してくださった。なんと申し訳ない」という、感謝と懺悔の日々を送っていたのです。
なぜ彼らはそのような境涯に住むことができたのか? その理由は彼らが、仏願の生起・本末を疑い無く聞けたためです。つまり疑蓋が外されていたわけです。
もしあなたが妙好人に魅力を感じるのであれば、まずは仏願の生起本末を正確に聞くことをおすすめします。
自力信心について
Q 「自力信心とは何ですか?」
自力信心という言葉を聞きました。これは他力信心とはどのように違うのでしょうか?
A他力信心とは疑蓋が外されたことを言います。阿弥陀仏から与えられる信心とも言えます。自力信心とは疑蓋がまだ外れていない状態を言います。自分の感情・知識などを頼りにした信仰心とも言えます。
他力信心は疑蓋が外された人のことです。善人なのか悪人なのか、仏教に詳しいかどうか、何年聴聞しているか・・・そういったことは何も関係ありません。獲信者であれば皆、同じように疑蓋が外され、阿弥陀仏から仏智の光が届いています。そのため他力信心に関しては「法然聖人=親鸞聖人=蓮如上人=妙好人」ということになります(下図)。
一方、自力信心は人間の感情や知識によって作られたものなので、常に崩れる可能性があります。また完全な信仰を確立するのは至難の技です。いくら自分の信仰心を純粋なものにしようとしても、本願に対する疑いが全く無いと言い切るのは不可能でしょう。
浄土真宗は「自力信心では極楽に往生できない」と説きます。阿弥陀仏に帰依すること、つまり他力信心をすすめる教えです。
Q 「お浄土行きだと信じてはいますが、何かモヤモヤした不安があります。」
お浄土行きだと信じてはいますが、何かモヤモヤした不安が少しだけあります。阿弥陀仏の本願を信じようという気持ちは大いにあります。しかしモヤモヤした不安が無くなりません。これは他力信心を得ていないということなのでしょうか?
A本当に疑蓋が外された人ならば、阿弥陀仏の本願をそのまま疑い無く聞けます。極楽浄土に生まれて仏にならせていただくわけですので、大きな喜びを味わいます。その喜びがどういうものかというと、自分の死ですら「これで六道輪廻(迷い)の根が切れて仏にならせていただけるのだ」という喜びによって肯定されるほどです。
モヤモヤしたものがあるということは、疑蓋が外されていないのかもしれません。仏願の生起本末を疑いなく聞けるかどうか、確認してみてください。
そして疑蓋が外されていないのでしたら、いくらお浄土行きを信じていたとしても、それは自力信心です。まずは仏願の生起本末を正確に聞いてください。また獲信者を探して、疑問点を尋ねることもおすすめします。
Q 「私は自分が他力信心を得ていると思いたいです。」
私は自分が他力信心を得ていると思いたいです。できれば浄土真宗の僧侶から「あなたはもう他力信心を得ましたよ」と認めてもらいたいです。こんなことを考えるのは、私の心の中に「もしかしたら自分はまだ未信なのではないか」という不安があるからです。どうしたらよいでしょうか?
A聞法している人の「認めてもらいたい」という欲求が強い場合、未信であるにも関わらず、自分を獲信者だと無理に思い込もうとする場合があります。またその弱みを利用して、「あなたは獲信者である」という認定を与える異安心も、過去に多く発生しました。
しかし他人から「あなたは獲信者である」と認めてもらったところで、疑蓋が外れていなければあなたは未信者です。疑蓋を外すのは人間ではなく、あくまでも阿弥陀仏です。まずは仏願の生起本末を正確に聞くことをおすすめします。
Q 「他力信心を得るとは「阿弥陀仏におまかせすること」だと聞きました。」
他力信心を得るとは「阿弥陀仏におまかせすること」だと聞きました。私はおまかせしているような気持ちがあります。死んだらどうなるのだろうかという不安もありますが、そのような自分を救うのが阿弥陀仏なのだと自分に言い聞かせています。これこそが他力信心なのではないでしょうか?
Aそれは他力信心の定義とは違います。たしかに他力信心は「阿弥陀仏におまかせすること」と表現されることがあります。しかしこの言葉は誤解されやすい表現でもあります。なぜなら、おまかせしている気持ちがあることと他力信心は違うからです。
「阿弥陀仏におまかせすること」とは、極楽往生できるかどうかを阿弥陀仏に完全に委ねるということです。「念仏となえる者を極楽浄土に生まれさせ、必ず成仏させる」という本願を、そのまま信受しているわけです。つまり疑蓋を外してもらったということです。
疑蓋が外れていれば、仏願の生起本末をそのまま疑い無く聞けます。「これこそが他力信心なのではないでしょうか?」と他人に認めてもらう必要はありません。
もう一度、本当に仏願の生起本末をそのまま聞けるかどうか、わずかな疑いすらも無いかどうか、確認してください。
聴聞する上での疑問
Q 「聴聞とは何ですか?」
浄土真宗では聴聞が大事だと聞きました。聴聞とは何ですか?
A浄土真宗は主に、僧侶が人々に向かって教えを語ること(法話)によって広められてきました。その教えを聞くことを聴聞(ちょうもん)といい、教えを聞く人々のことを聞法者(もんぽうしゃ)といいます。現在でも僧侶が浄土真宗の教えについて語り、それを聞法者が聴聞するのが一般的です。浄土真宗の寺院では必ずと言っていいほど法話会が行なわれ、教えが伝えられています。
そして聴聞において何を聞くのかというと、仏願の生起本末を聞きます。
浄土真宗の教えを説明した本も出版されていますし、インターネットで法話を公開している僧侶もいます。可能ならばそういうものも活用しながら、浄土真宗の教えに親しんでいただきたいと思います。
Q 「聴聞していると、分からないことがたくさん出てきます。」
聴聞していると、分からないことや理解できないことがたくさん出てきます。阿弥陀仏が本当に存在しているのか、因果の道理は本当に正しいのか、罪悪を犯すと六道輪廻すると説かれるが心底からは信じられない・・・など。
罪悪の話を聞いても、頭では理解できますが、その罪深さを実感することはできません。念仏となえる者を成仏させると言われても、救われた実感が全くわかず、まるで自分は空念仏をとなえているかのようです。
浄土真宗の教えは素晴らしいと思うのですが、こんな疑問を抱いてしまう自分はとても救われないだろう、と悩んでいます。どうしたらよいのでしょうか?
Aそれは聴聞の方向が逆です。ここは大切なところですので、方向を修正してください。
そもそも分からないことや理解できないことがあっても、問題はありません。なぜなら阿弥陀仏の本願は、どのように劣った衆生をも成仏させるという、差別の無い救いだからです。どのような自分であっても問題は無いという点を、まずは押さえておいてください。つまり浄土真宗の教えの中で分からない部分があっても、救いの妨げにはならないということです。
では次に、聴聞の方向を修正します。どう修正するかというと、注目する対象を修正します。
あなたは今まで「自分の思いや感情、理解力」に注目してきました。そのため何か分からないことがあると「こんな自分では救われないのではないか」と考えていたわけです。しかしこれでは、聞き間違いに陥ってしまいます。阿弥陀仏の本願は差別の無い救いですから、「○○○だから私は救われないのだ」と思い込んでしまうと、本願が条件つきの救いに変わってしまうわけです。これでは本願の内容が別のものになり、救われるものも救われなくなります。
本来、聴聞する上で注目すべきは「阿弥陀仏が私をどのようにして仏にするのか」ということです。つまり阿弥陀仏が誓っておられることに注目するわけです。次の図を見てください。
この図は、自分の思いや感情・理解力に注目している状態を表したものです。ここから以下の図のように視点を修正します。
図の左上に描かれた目は、阿弥陀仏の目だと考えてください。阿弥陀仏の救いを聴聞しても、自分には分からない部分がある。けれども・・・そんなあなたに対して、阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏を称える者を、極楽に生まれさせて成仏させる」と約束しているのだ、と聞くわけです。
つまり下の図のように、阿弥陀仏の横にいるつもりになって阿弥陀仏の視点から自分を見るわけです。
ですので聴聞には2つの方向があるということになります。1つは自分の気持ちや考えに注目する聴聞。もう1つは「阿弥陀仏から見ると自分はどのような存在なのか」という聴聞です。
これまで説明してきたように、浄土真宗の聴聞は後者であり、阿弥陀仏の本願を仰いでいくものです。自分中心の視点から阿弥陀仏中心の視点へ、聴聞の方向を修正してください。
阿弥陀仏中心の視点というと難しいようですが、要は「阿弥陀仏から見たら、私はどのように見えるのだろうか」ということです。例を挙げて説明しましょう。
たとえば阿弥陀仏から見れば、もしあなたが魚や肉を食べれば、それは救わずにおけない罪の1つです。日常生活の罪の1つ1つが、法蔵菩薩の仏道修行の理由となります。たった1つの罪を見逃しただけでも、あなたは来世も六道輪廻を続けてしまう・・・それを防ぐために、1つの罪も漏らさずに調べ上げて、その罪悪を打ち消して極楽往生させるだけの仏道修行をしてくださったということです。
ですので殺生や欲深さ・怒りの心など、自分の罪悪を見つけるたびに「(自分にはよく理解できないし実感できないが・・・)しかしこの罪のために、法蔵菩薩が果てしない仏道修行して功徳を積んでくださったのだ」ということを聴聞していってください。
また阿弥陀仏から見れば、あなたの口から出ている念仏は、あなたを極楽往生させて仏にする功徳を持ったものです。「自分には念仏にそんな功徳があるとは思えないが、阿弥陀仏がおっしゃるには、この念仏に往生成仏の功徳が詰め込んであるそうだ」と聴聞していってください。
たとえあなたが自分中心の視点に戻ってしまい、「そんなこと言われても分からない、理解できない」という思いが出て来たとしても、問題はありません。そのような思いに対しても、「阿弥陀仏から見ればどういうことだろう?」「そうか、念仏の価値も分からない自分を、必ず往生成仏させると誓っておられるのか」「理解できない自分に対して、阿弥陀仏はそうおっしゃっておられるのだな」という視点で見ていってください。
浄土真宗の教えの中で、理解できず実感できない部分があっても、救いの妨げにはなりません。ですので「自分には理解できないし実感できないが・・・、しかし、阿弥陀仏からはどう見えているのか? 阿弥陀仏は自分に対してどう誓っておられるのか?」を聞いていくということです。
(ちなみに、「○○○だから私は救われないと思う」という人も「●●●だから私は救われると思う」という人も、どちらも本質的には同じです。救われる自信があるか無いかの違いだけで、両方とも自分中心の視点です。そうではなくて、阿弥陀仏中心の視点に転換することをおすすめします。)
Q 「罪悪や無常や因果の道理を心底からは信じられません。」
正直に告白しますと、実は私は、罪悪や無常や因果の道理の教えを聞いても、心底からは信じられません。たとえば肉食する時に、心の中で少しは悪い事をしているな、と思います。しかし、おいしい物を食べれば満足ですし、また次も食べたいと思ってしまいます。
こんな自分は罪悪の教えを全く信じていないのでしょう。そして自分がいつ死ぬか分からないとも思わず、本音をいえば、ずっと生きているだろうと決め付けている心があります。死後に苦しい世界に行くというのも、因果の道理の話を聞けば理解はしますが、心の底では全く信じていません。
死後に苦しい世界へ行くのを怖れる人々こそ、阿弥陀仏の救いを求めるはずでしょう。私のような者は、浄土真宗の教えを聞こうとするはずは無いと思います。しかし私は、なぜか法話を聴聞したり念仏をとなえたりするようになりました。とても不思議です、これはなぜなのでしょうか?
A阿弥陀仏の働きかけが全ての衆生にかかっているからです。どのように劣った衆生であっても、仏教を求める心が無くても、阿弥陀仏の働きかけによって引き寄せられるわけです。
仏教の基礎である無常・罪悪・因果の道理すらも信じられないのであれば、当然、仏道修行をして輪廻から解脱しようという気持ちも起こらないでしょう。解脱する手がかりの無い者です。
ですがそのような人々も、浄土真宗の教えを聞くようになり、念仏をとなえるようになり、疑蓋が外されることがよくあります。なぜなら阿弥陀仏の方から働きかけておられるからです。
Q 「死後の世界があるとは信じられません。」
そもそも死後の世界があるなんて、まったく信じられません。科学的に考えて、死後は無になると思います。ましてや死後に六道輪廻するなど、作り話のように感じられてしまいます。
A死後が無いとは断言できません。なぜなら死後に何が起こるのか、人間の科学では解明されていないからです。逆に、死後の世界が有るということも科学的には断言できません。死後の有無は、現在の科学では何も証明されていないのです。
そこで少しでも手がかりを得るため、死後がどうなるのか、確率論で考えてみましょう。すると次の図のように、死後が有る=50%、死後は無い=50% となります(下図)。
さらに死後が有った場合を考えると、「今より良い世界、同じような世界、もっと悪い世界」の3つに分けられます(下図)。
これらはそれぞれ3分の1の確率です。
もし死後が①今よりも良い世界であるならば、何も問題は無いでしょう。また②今と同じような世界は、例えば再び人間に生まれ変わるなどが考えられますが、これも許容範囲と言えるかもしれません。
しかし、③今よりも悪い世界に行く場合を考えると、ある不安要素が出てきます。それは、現在よりも大きな苦しみを味わわなければいけない可能性がある、ということです。
これを確率で表現すれば、
「死後の有無(2分の1)×死後の行き先(3分の1)=6分の1」
が、悪い世界に行く可能性となります。
つまり6分の1の確率で、死後に悪果が起こるという不安要素があるわけです。これはパーセントでいえば約17%です。
以上のように、死後が無ではない可能性はあります。
Q 「死後の世界があったとしても、 人間には解決不可能な問題だと思います。」
死後の世界があったとしても、それは結局、人間には解決不可能な問題だと思います。考えるだけ時間の無駄ではないでしょうか?
A確かに人間にとって、死後の問題は力の及ばないものだといえます。なぜなら死後の悪果を改善するどころか、死後が有るか無いかさえ分からないからです。私たちは仕事・子育て・人間関係・健康管理などについては、努力で改善できます。しかし死後の問題については、私たちの力は及びません(次図)。
論理的に考えると、自分で死の問題を解決するためには、「死後の世界を良い方向へ変える能力」が必要となります(下図)。
しかしそのような能力を持つ人は、ほぼいないでしょう。筆者のような一般人は死後の有無すら分からないのですから、死後の行き先を改善するなど不可能です。普通の人々は、自分の力では死後の問題の解決はできないということです。
だからこそ阿弥陀仏の本願が、どのような劣った衆生をも成仏させると誓ってあるのです。死後に対する不安を持つ人には、仏願の生起本末を正確に聞くことをおすすめします。
Q 「あまりにもひどい極悪人は救われないと思います。」
あまりにもひどい極悪人は救われないと思います。五逆罪や謗法罪の人々(故意に親を殺したり仏教はでたらめだと宣伝している人)は、死ぬまで他力信心を得ることはできないのではないでしょうか?
A阿弥陀仏の本願は罪の重さを問わない救いです。あくまでも疑蓋が外されたのかどうかが分かれ目であり、罪がどれくらい重いかは関係ありません。
ただし五逆罪や謗法罪は非常に重い罪です。阿弥陀仏の本願(第十八願)を読むと、「唯除五逆誹謗正法」という文字があります。「五逆や謗法の者は救いから除きます」という意味で、たしかに五逆罪や謗法罪を犯した人々は救われないようにも読めます。
しかし親鸞聖人は次のように書いておられます。
「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」 (『尊号真像銘文』)
五逆や謗法は重い罪であり、当然それは止めるべきである。しかし五逆や謗法を犯した者であっても阿弥陀仏の救いの対象である、ということです。
他人に対して「あなたは五逆や謗法を犯したから、阿弥陀仏ですら救えない」というのは間違いです。またもし、あなたが過去に五逆や謗法を犯したことで「救われないのではないか」と怖れているのであれば、二度とそれらの罪を犯さないように改心して、阿弥陀仏の生起・本末を聞いてください。たとえ過去にそのような大罪を犯した者であっても、阿弥陀仏の本願を聞けばよいのです。
Q 「浄土真宗の教えを聞いていれば、どんな悪い事をしてもよいのでしょうか?」
阿弥陀仏の本願はどんな極悪人でも救うのだから、浄土真宗の教えを聞いていればどのような悪い事をしてもよいのではないしょうか?
Aこれはよくある間違いで、昔から「造悪無碍(ぞうあくむげ)の異安心」と呼ばれてきました。中には「悪いことはしてよい。むしろ積極的に悪いことをしなければならないのだ」と主張する人まで出ました。
造悪無碍に走ってしまうという人というのは、阿弥陀仏のご恩を忘れているということです。自分の罪悪が原因となって阿弥陀仏に仏道修行をしていただいたこと(仏願の生起)を思い出してほしいと思います。罪悪を減らそうと思うことはあっても、わざわざ罪悪を増やすべきだと主張するのはおかしなことです。
積極的に念仏を称えたり、聴聞の機会を増やすことをおすすめします。
もしくは、そのような人はそもそも疑蓋が外されていない、という可能性も考えられます。法蔵菩薩のご苦労を聞いていないから「悪を犯してもよいのだ、罪悪を増やしてもかまわない」と考えるのではないでしょうか。
繰り返しますが、大切なことは疑蓋が外されたかどうかです。造悪無碍のような考え方に陥っている人は、今一度、仏願の生起本末を聞いて全く疑いが無いかどうか、確認してみてください。
浄土真宗は罪悪を肯定する教えではありません。罪を犯さざるを得ない私たちのことを深く悲しみ、必ず往生成仏させると誓われた阿弥陀仏の本願を仰いでいく教えです。
Q 「『体で犯す罪よりも心で犯す罪の方が重い』と主張する人がいます。」
「体で犯す罪よりも心で犯す罪の方が重い」と主張する人がいます。本当でしょうか?
A心の罪の方が軽いと教えられています。親鸞聖人は『教行信証』に、次の文章を引用しておられます。
「一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす」(『涅槃経』)
これは、
心と口で作る罪=軽い
心と口と身体で作る罪=重い
ということです。
つまり、
心+口=軽い罪
心+口+身体=重い罪
となります。
ここから導き出されるのは、心だけの罪は最も軽い罪である、ということです。
ただし、そもそも阿弥陀仏の救いにおいては罪の軽重は問いません。罪の軽重ではなくて、自力で仏道修行をして解脱できるのかできないのか、が重要な点です。筆者のように仏道修行の出来ない凡夫であれば、罪が軽かろうと重かろうと、自力で解脱できないのは同じです。
阿弥陀仏の本願にすがらないと成仏できない人には、仏願の生起本末を聞くことをおすすめします。
Q 「他力信心を頂いたら、今よりも少しは善人になれるでしょうか?」
他人に迷惑をかけない社会的に立派な人になりたいです。他力信心を頂いたら、今よりも少しは善人になれるでしょうか?
Aたとえ疑蓋が外されたとしても、私たち凡夫は、状況次第で善いことも悪いこともする可能性があります。たとえば自分と自分の家族が飢えていれば、他人にほどこすどころではない、というのが凡夫の本音でしょう。
他力信心をいただけば、たしかに感謝と懺悔の思いが増えるものです。なぜなら仏願の生起本末を聞くたびに、「これほどの悪いことを積み重ねている自分を、まさか成仏させてくださるとは、なんと有難い、なんと申し訳ないことか」という思いが湧き出て来るからです。
しかし浄土真宗では、善人になるとは教えません。というのは仏教から見た善悪の基準が、人間社会の基準よりもはるかに厳しいからです。
たとえば何か善いことをしたとします。貧しい人にお金をあげる、飢えている人に食べ物をあげる、などです。しかしわずかでも見返りの気持ちがあれば、それは雑毒の善と呼ばれ、真実の善とは認められません。
仏教でいう善人とは、完全に執着を離れ、見返りを求めない善を行える人です。そのような人を善人というのであって、少し心が穏やかになったとか怒る回数が減ったとかでは、仏教では善人とは呼ばないのです。怒り・嫉妬・執着などは変わりません。自分が凡夫であることに変化はありません。
他力信心を得たら、阿弥陀仏が救うといっている悪が余計に見えてきて、とても「自分は善人です」とは言えなくなるものです。法蔵菩薩が仏道修行をした理由(仏願の生起)が見えてくるからです。「これも生起だった、あれも生起だった」となります。
たとえば妙好人の浅原才市は、自画像を描いてもらったときに「おや、角が抜けとるのう」といって、わざわざ鬼のような角を描き足してもらっています。それは才市には「自分は罪悪ばかりで鬼のような者である」という自覚があったからです。
そのような意味では、善人になれるとはとても言えません。たとえば親鸞聖人は仏道修行を20年も行われました。人間社会の価値観からすれば素晴らしい善人だと言えるでしょう。しかしその親鸞聖人のような方ですら、自分の心の中は罪悪と煩悩だらけだ、と告白しておられるのです。
疑蓋が外れても、善人になったり煩悩が減ったりするわけではありません。変わる点は1つだけです。「念仏となえる者を必ず極楽に生まれさせ成仏させる」という阿弥陀仏の本願を、疑い無く聞かせていただけるようになるのです。
Q 「獲信した人はお浄土がはっきり見えるようになるのですか?」
獲信した人はよく極楽浄土に行けることを喜びますが、お浄土がはっきり見えるようになるのですか?
Aなりません。これは間違えやすいところです。他力信心を得た人は極楽浄土に生まれられることをよく喜びますが、決して浄土が見えているわけではないのです。
厳しい修行をして悟りを開いた聖者であれば、もしかしたら極楽浄土が見えるかもしれません。しかし凡夫である私たちには極楽浄土を見る力はありませんし、極楽浄土が見えるようになる必要もありません。
ではなぜ他力信心を得た人は極楽行きを喜べるかというと、阿弥陀仏の本願にそう誓われてあるからです。「念仏となえる者をかならず極楽浄土に生まれさせ、仏にする」というのが阿弥陀仏の本願です。そして他力信心の本質は、この仏願を疑い無く聞ける、という点にあります。仏願の内容が、そのまま自分のものになるわけです。
獲信者が極楽行きを喜べるのはこのような理由からです。
Q 「死んだらみんな仏になるのではないですか?」
死んだらみんな仏になるのではないですか? 私は小さい頃からそう教えられてきたので、死ねば誰でもお浄土に生まれるのだと思い込んでいます。
Aそうとは断言できません。確かに、阿弥陀仏の本願にはそのように誓われています。しかし私たちの中には、救いを拒否する疑蓋があります。
他人の後生(死後)がどうなるのか、他のみんながどうなるのか、私たち凡夫には分かりません。もしもあなたが自分の後生を心配しているのであれば、まずは仏願の生起本末を正確に聞くことをおすすめします。
Q 「ご法話を聴聞する時はうなづけますが、他力信心を得た感じがしません。」
ご法話を聴聞する時はうなづけますし、自分の罪悪も実感できます。諸行無常の理も真実だと思いますし、阿弥陀仏に救っていただきたいと思っており、念仏もよく称えています。しかし他力信心を得た感じがしませんので、私はまだ救われていないと思います。どうしたらよいのでしょうか?
A罪悪や無常を実感できていることや、念仏を称えているのは素晴らしいことです。しかしあなたは、仏願の生起本末を聞き間違えているようです。
「まだ他力信心を得た感じがしませんので、私はまだ救われていないと思います」とありますが、ここが聞き間違いです。阿弥陀仏は「念仏となえる者を浄土に生まれさせて仏にする」と誓っておられます。つまり阿弥陀仏の方はあなたの成仏を約束しておられますが、あなたは「他力信心を得た感じがしないから、私はまだ救われていないのだ」という自分の思いを優先しているわけです。
あなたの頭の中では仏願の内容が別のものに変わってしまっているのですから、それは不正確な聴聞だと言わざるを得ません。
自分の思いを優先するのではなく、阿弥陀仏の本願に注目しましょう。まずは仏願の生起本末を正確に聴聞してください。
差別の無い救い
Q 「なぜ浄土真宗の救いは凡夫が目当てなのですか?」
浄土真宗の教えは、仏道修行のできない凡夫目当てだと聞いたことがあります。なぜ凡夫が目当てなのですか?
A劣った者を目当てにして阿弥陀仏の本願が起こされたからです。善行を積むことができて悪を止めることができる善人であれば、自力で仏道修行をして成仏できるかもしれません。しかし仏道修行ができない凡夫には、自力で成仏できる可能性がありません。そのような劣った者を救うことを前提にして、阿弥陀仏の本願は起こされたのです。
ですから、たとえば筆者のような仏道修行のできない凡夫こそが、阿弥陀仏の本願の主な対象だということです。
疑蓋が外された人へ
Q 「先に死んだ家族の後生が心配です。」
先に死んだ家族の後生が心配です。無事に極楽浄土に生まれているでしょうか?
もしご家族の心配が頭から離れないのであれば、あなた自身が仏願の生起本末を正確に聞くことをおすすめします。あなた自身の疑蓋が外されれば、阿弥陀仏と同じ仏となり、まだ迷っている人々を救えるからです。そうなれば何も心配する必要は無くなります。
また、自分より先に死んだ人の姿は、私たちに諸行無常の真理を教えるためのものである、とも仏教では説かれます。どうぞ、あなたにかけられた阿弥陀仏の願いを聞いてください。
Q 「疑蓋を外していただいた後は、どのように生きたらよいのでしょうか?」
私は外していただき、仏願の生起本末を疑い無く聞けるようになりました。阿弥陀仏に疑蓋を外していただいた後は、どのように生きたらよいのでしょうか?
Aお念仏を称えながら阿弥陀仏の本願を喜んでいけばよいのですが、可能ならばやって頂きたいことが2つあります。
・1つは信心の沙汰(しんじんのさた)をすること。信心の沙汰とは、本当に自分が疑蓋を外されたのかどうか、他の人々と確認し合うことです。本当に往生成仏させていただける身になったのかどうか、確かめるのは大切なことです。浄土真宗の集まりで信心の沙汰をしているところがありますので、参加するとよいでしょう。
なお他力信心を得た者同士での話し合いでは、仏願の生起本末を疑い無く聞けるという共通点があるため、大きな喜びを共に味わうことができます。
・もう1つは、極楽往生して成仏させていただける喜びをご縁のある人に伝えること。成仏させていただけることはこの上なく有り難いことです。なので疑蓋を外された人は、その喜びを他の人に伝えたくなるものです。直接話をして伝えるのもよいですし、他力信心について布教している人を支援するのもよいでしょう。
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