第4章 救われるべき存在

なぜ阿弥陀仏は「あなたを必ず救う」と誓ったのでしょうか?
それは、阿弥陀仏の目に映った私たちの姿に理由があります。それは私たちが暮らす人間社会の価値観と、仏様の価値観とは大きく違うからです。

では阿弥陀仏には私たちの姿がどのように見えたのか? それをこの章で説明します。

 

4-1 罪悪

前章では阿弥陀仏の救いについて説明しました。では、なぜ阿弥陀仏はあなたを救うと約束しているのでしょうか? 「阿弥陀仏は悪人でも救うと言われるけど、私はそんなに悪いことはしていないよ」と考える人も多いものです。

例えばあなたが社会的に立派な人だったとします。

・仕事や家事や勉強をがんばっている
・家族みんなで仲良く暮らしている
・警察に捕まるような悪いことはしたことが無い

こんな人であれば、なぜ救われなければいけないのか、まったく実感が涌かないかもしれません。

しかし、人間社会における罪悪と、阿弥陀仏の視点から見た罪悪では、大きく違う点があります。社会的に立派な人であっても、阿弥陀仏にとっては救いの対象となるのです。

では阿弥陀仏の視点から見て、私たちの何が問題なのでしょうか?

 

阿弥陀仏から見た罪悪

まず挙げられるのが、私たちの行動と心の動きです。
人間社会においては、いくら心で悪いことを思っても罪にはなりません。いくら心で「あいつが憎い、あいつを傷つけたい」と思っても、実行しなければ問題ありません。

しかし阿弥陀仏からは違ったものが見えています。私たちが体や口だけでなく、心で悪いことを行っただけでも罪悪となってしまうのです。

以下に、代表的な罪悪である「十悪」「五逆」「謗法」を挙げておきます。

 

十悪

十悪・・・体・口・心で起こしてしまう悪いことです。仏教用語なのでむずかしい言葉に見えますが、その中身は私たちが思い当たるものばかりです。

殺生(せっしょう)・・・生き物を殺す。
偸盗(ちゅうとう)・・・人の物を盗むこと。泥棒やスリ、強盗。
邪婬(じゃいん)・・・・配偶者ではない人と性的な関係を持つ 。
妄語(もうご)・・・・・嘘をつくこと。
両舌(りょうぜつ)・・・仲たがいをさせる言葉。二枚舌。
悪口(あっこう)・・・・人を傷つける言葉。
綺語(きご)・・・・・・誠実でない言葉。おべんちゃら。
貪欲(とんよく)・・・・とても欲深いこと。我欲。
瞋恚(しんに)・・・・・怒りの心。
邪見(じゃけん)・・・・因果の道理が分からないこと。恨み嫉むこと。

(ちなみに、これらを犯さないことを十善といいます)

 

五逆(ごぎゃく)・謗法(ほうぼう)

さらに重い罪として、五逆罪と謗法罪があります。
五逆罪は、以下の5つです。

殺父(せっぷ)・・・父を殺すこと。
殺母(せつも)・・・母を殺すこと。
殺阿羅漢(せつあらかん)・・・阿羅漢 (聖者) を殺すこと。
破和合僧(はわごうそう)・・・仏教の集まりの輪を乱すこと。
出仏身血(しゅつぶっしんけつ)・・・仏様の身体を傷つけて血を出させること。

謗法罪(ほうぼうざい)は、「仏教なんてでたらめな教えだ」と思い、また他人にもそう言いふらすことです。

 

罪悪が実感できない人へ

罪悪の話をすると「悪い事をしているのかもしれないが、生きていくためには仕方がないと思う」という声をよく聞きます。

では私たち人間がやっていることは、絶対に重い罪ではないと言えるのでしょうか? ここで罪悪について、違う角度から考えてみましょう。

私達は日常的に動物の肉を食べています。例えば牛・豚・鶏の肉はスーパーマーケットや市場で買えますし、これを使ったハンバーガーなどの料理も世界的に普及しています。

これを仏教から見ると、非常に残酷な罪となります。なぜなら仏教では「命の平等」を説くからです。全ての生き物は成仏の可能性を持っており、ゆえにその命は等しく貴重である、ということです。

つまり人間の命、牛の命、虫の命がそれぞれ同じ重さを持つのです。

(命の重さを表した図)

これを考慮に入れてみましょう。私たちが牛・豚・鶏を食べるのは、立場を変えると次のような話になります。

肉食の例え話
人間よりもはるかに知能指数の高い生物が、人間を殺して食べる習慣があったとします。

例えばあなたの子供がその生物に食べられたとしましょう。しかしその生物は「人間さん、食料になってくれてありがとう」と感謝し、「やっぱり子供の肉は柔らかくておいしいなあ」と言ったとします。あなたは大切な子供を食い殺されたことを、怒りや悲しみを感じることなく許せるでしょうか?

私たちが必死で ”人間を食べるのをやめろ!” と訴えても、「いや、野菜だけじゃ物足りないから」「一週間に一回は人間の肉を食べないと元気が出ないし」「そうそう、たまには食べたいよね」と、その生物たちが言い合っている。そんな恐ろしい光景を想像してみてください。

いくら非難しても「何百年も前から人間を食べてきたんだから、いきなりやめろと言われても無理だよ」「それに人間の肉を売っている店こそが悪いんだよ。売ってなかったら買わないし」「人間を食べてるのは私だけじゃない。他のやつらも食べてるんだから別にいいじゃないか」「のろまな人間が悪いんだよ」と、その生物たちは納得している様子です。そして人間の肉を売っている生物は「いや、買う奴らが悪い。おれは悪くないよ」と言い張ります。罪を認めるどころか、どちらも口をそろえて自分の行いを正当化しています。

しかしそもそも、人間を食べる生物がいなければ、人間が無駄に殺されることはないのです。

いかがだったでしょうか?

この話は、決して大げさな例えではありません。命の平等を考えた場合、私たちが毎日している「食べる」という行動は、そのままこの例えと同じことになるのです。

 

(人間が償う必要のある負債=殺生という悪業)

 

また動物の肉だけではありません。野菜や果物や穀物を作るため、畑の虫たちは殺虫剤によって全滅させられます。洋服・家具・車・パソコン・携帯電話などの工場を作るときも、地面を平らにする時点で大量の虫を殺します。

考えてみれば、他の生物を殺さずに生きられる人間はほぼいないと言っていいのではないでしょうか。

他の生物の「まだ生きていたい」という願いを、容赦なく奪っている生き物。それが私たちなのではないでしょうか。

ではこのように罪悪を作り続けている人は、一体どうなると説かれているのか? それを阿弥陀仏の視点から説明しましょう。

 

4-2 因果の道理

仏教では、罪悪を犯した人は、その報いとして苦しい結果が返ってくると説きます。逆に善を積んだ人は楽果が返ってくると説きます。つまり、善い原因を作れば楽果が、悪い原因を作れば苦しいことが返ってくるということです。

しかし、原因がそのまま結果に直結するわけではありません。その間をつなぐものがあります。それが「縁」です。

例えば花が咲くという現象を考えてみましょう。タネ(原因)だけでは、花(結果)は咲きません。縁となる土・水・太陽光がそろって初めて、つまり条件がそろって初めて、タネから芽が出て、最終的に花が咲くのです。

 

(タネ=因。太陽と雨と土=縁。花=果)

 

これを因縁果の道理、または因果の道理と呼びます。

では罪悪という悪いタネをたくさん抱えた人は、どんな花が咲くのでしょうか? 死という縁によってどうなると説かれているのか。

それを簡単に言えば、悪いことをした人が死ねば苦しい世界に生まれ変わると説かれます。

たとえば十悪でいうと、生き物を殺したり、悪口を言ったり、怒りの心を起こしたり・・・といった悪いタネは、新たな苦しい世界を作り上げるということです。悪い事をした人には、苦果を受けるべく次の世界が作られる。これが因果応報、因果の道理です。

その苦しみを避けたいのであれば、仏道修行をして仏の悟りを開けばよいのですが、私のような一般人には不可能です。悟りを開くような真実の善はできませんし、罪を犯さずには生きていけません。

 

六道輪廻

煩悩を断ちきれずに罪悪を積み重ねる人は、この因果の道理に従って、苦しい世界に生まれ変わると説かれるのです。どのような世界かというと、仏教では6つの世界(人間・天上・修羅・餓鬼・畜生・地獄)を説きます。これを六道と呼びます。

(六道輪廻の図)

6つの迷いの世界から抜けられず、ぐるぐる回るように迷い続けていると教えます。これを六道輪廻といいます。

1つずつ説明しますと、

・人間・・・私たち人間の世界です。煩悩による苦しみの多い世界。ただし六道で唯一、仏教に出会える可能性がある。
・天上
・・・天人(てんにん)の世界。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命も長く、人間に比べて苦しみも少ない。しかし煩悩から解放されていない。天人が死ぬときには、それまで楽の多い暮らしをしてきたがゆえに、多大な衰えを味わう。
・地獄
・・・重い罪悪を犯した者が生まれる世界。罪が重い者ほど大きな苦しみを受ける。
・餓鬼
・・・餓鬼(がき)の世界。餓鬼とはお腹がふくれた鬼のこと。食べ物を口に入れようとしても火になって消えてしまう。餓えに苦しみ続ける。
・畜生
・・・犬・牛・馬など動物の世界。本能で生きており、仏教の救いを得ることができない。
・修羅
・・・戦いの鬼である阿修羅(あしゅら)が住む世界。争いが絶えない。

となります。

そして仏道修行ができない私たち凡夫は、これらの世界を生まれ変わり、脱出することができないというわけです。

 

この輪廻から抜けるには、

A、自力で悟る(自力門)
B、他力に救ってもらう(他力門)

という、2つの可能性があります。

以前も書いたように、Aの自力門は自分で煩悩を克服する修行をし、自分の力で輪廻から抜けるということです。つまりこの世で仏になるということで、実際に仏道修行に挑戦する人もいます。

ではこの世で仏になるとは、どういうことなのか? それは一切の執着から解放されることです。例えば足の無い人から「あなたの健康な足をくれ」と言われたら、自分の足を差し出すことができます。さらにいえば「こんな汚い足、いらん!」と言われても、怒りの心が起こりません。執着が無いからです。

しかしこれは一般人にとってはあまりにも難しいと言えるでしょう。私には一生かけてもこの境地に到達できる自信はありません。そして私と同じような仏道修行ができない人のために、他力門があるのです。

 

4-3 無常

 

阿弥陀仏が私達を救う理由はもう1つあります。それが無常(むじょう)ということです。無常といえば、物事が移り変わっていくこと、不変であるものは何もないことをいいます。

特に重要なのは、私達の命すらも無常であるということです。

私達は知識としては「いつ死んでもおかしくない」と知っています。しかし実際は、「まあ明日も生きていられるだろう」と考えて生活しています。まだしばらく生きているはずだという前提があるからこそ、明日の準備をしたり来週の予定を確認したり、将来の計画や老後の備えをするわけです。

いつまでも生きていられる、と思うからこそ、身近な人が死んだ時に「まさかあの人が・・・」「昨日まで生きていたのに」と驚くわけです。

真実からいえば「次の瞬間に命があるという保証はどこにもない」「次の息が吸えなくなったらもう死んでしまう」ということになります。そのような本物の無常を見極めることは、一般人には不可能なのかもしれません。

しかし仏の悟りを開いた阿弥陀仏から見ると、私たちはいつ死んでもおかしくない存在です。さらに、輪廻から抜ける修行をせずに、欲望を満たすために生きています。

阿弥陀仏は、そういう私たちのことを、流転輪廻を繰り返している者たちだと見抜かれました。

 

仏道修行できない人に救いはあるのか?

阿弥陀仏から見れば、仏道修行もせずに罪を犯し続けている人は、どうしようもなく流転輪廻して迷い続けているということになります。

では私たちのような一般人は、一体どうすればよいのでしょうか? 死ねば再び、迷い続けるしかないのでしょうか。

決してそうではありません。前述したように、仏道修行のできない者であっても、迷いを抜けることはできるのです。それを次章で説明していきます。

 

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