第5章 阿弥陀仏の本願とは何か

私たちはどのようにして救われるのか? 阿弥陀仏とは一体どのような方なのか?
それをこの章で説明します。

 

5-1  あなたのために立ち上がった法蔵

ここでは阿弥陀仏の本願について説明します。
まず阿弥陀仏とは誰でしょうか? それはお釈迦さまと同じように悟りを開いた仏様です。しかも、自分一人が悟ったのではなく、全ての衆生(生きとし生けるもの)を悟らせる方法を完成させました。

この「全ての衆生を仏にしてみせる」という願いを、阿弥陀仏の本願と呼びます。

私たち凡夫は、自分の力で悟ることは不可能です。しかし阿弥陀仏の本願によって仏に成らせてもらえるのです。

阿弥陀仏の本願について『仏説無量寿経(大無量寿経)』というお経に詳しく説かれていますので、その概要をお伝えしましょう。

『阿弥陀仏の本願』

遠い遠い昔、ある国に、とても慈悲深い王様がいました。その王様はあるとき、すばらしい仏様の教えを聞きました。それは世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏様の教えで、感激した国王は出家し、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と名乗って修行を始めました。

優れた修行者であった法蔵は「迷い苦しむ全ての衆生を救おう」と思いました。罪悪をやめられず輪廻を繰り返している衆生をも救う、と決めたのです。

どのようにすれば仏道修行のできない凡夫までも救えるのか? 法蔵は、世自在王仏に助言を求めました。そして長い長い間、救う手段を考えました(※これを五劫思惟(ごこうしゆい)と言います。とは非常に長い時間の単位で、思惟とは考えるということです)。

そして法蔵は48の願いを起こしました。これらの願いは、

 ・衆生を仏にするための素晴らしい世界(極楽浄土)をどのような所にするか
 ・どうすれば衆生は極楽浄土に生まれられるのか
 ・極楽浄土に生まれた衆生はどうなるのか

などを表わしたものです。

この中の18番目の願い(第十八願)は、「南無阿弥陀仏をとなえる者を必ず極楽浄土へ生まれさせ、成仏させる」という内容です。凡夫の救いに直接関わってくる重要な願なので、王本願とも呼ばれます。

さて、全ての衆生を救うとを誓った法蔵は、この願いを完成させるための修行を始めました。永遠のように長い時間がかかったので、これを兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行と呼びます。

この修行の間、法蔵菩薩は欲望や怒りの心など持たず、何にも執着せず、どんな辛いことにも耐え忍びました。

限りない智慧を持ち、慈愛に満ちた顔と優しい言葉を使い、仏・法・僧をうやまいました。悟りの世界へ至るための修行を続け、他の人にもこれを教え導きました。兆載永劫という長い間、功徳(善)を積み重ね続けました。

ところで、なぜ法蔵はこのように膨大な修行をされたのでしょうか? それは善行のできない劣った衆生のためです。心が清らかで積極的に善を行う衆生ばかりであれば、法蔵がこれほどの修行をする必要はありませんでした。仏道修行ができない、怒りや憎しみの心を消せない、殺生などの悪を止めることができない凡夫の代わりに、法蔵が修行して功徳を積んでくださったということです。

では、法蔵のご修行の結果はどうなったのか? 今から十劫の昔に、法蔵はついに本願を成就させました。とうとう救いが完成したのです。

法蔵は悟りを開き、阿弥陀仏という仏様になられました。阿弥陀仏の国である極楽浄土も完成したのです。極楽浄土は清らかな場所であり、一切の苦しみがありません。そこに生まれた者はすぐに仏の悟りを開きます。

法蔵の長い長いご修行の功徳(善)はすべて、南無阿弥陀仏に詰め込まれました。

「南無阿弥陀仏をとなえる者を極楽浄土に生まれさせ、成仏させる」という救いが完成したのです。

 

南無阿弥陀仏とは何かというと、阿弥陀仏からのプレゼントなのです。なぜなら私たちが称える南無阿弥陀仏には、極楽浄土に生まれて成仏する功徳が詰め込まれているからです。

以上が「阿弥陀仏の本願」の説明です。

なお法蔵菩薩が願いを起こされた理由を生起(しょうき)、完成された救いによって私たちが成仏するところまでを本末(ほんまつ)、合わせて仏願の生起本末といいます。

これは「なぜ南無阿弥陀仏がつくられたのか?」の説明でもあります。そのため仏願の生起本末は「南無阿弥陀仏のいわれ」「六字のおいわれ」とも呼ばれます。

 

5-2 差別の無い救い

阿弥陀仏の救いには差別がありません。どの国・民族・性別など、関係ないのです。またいくら宗教的な才能が乏しい人でも、阿弥陀仏の救いの対象です。そのため、他の宗教を真面目に信じようとしても信じられなかった人や挫折した人にとっても、朗報と言えるでしょう。

しかしながら阿弥陀仏の本願の話を聞いた人々から、「話は聞いたが、まだ阿弥陀仏に救われた感じがしない」という声をよく聞きます。念仏をとなえる習慣を持つ人でも、救われた気がしないという人は多いものです。これはなぜでしょうか?

その理由は救いを邪魔するものがあるからです。実は私達は、阿弥陀仏の救いを拒否する”あるもの”を抱えているのです。

これについて次章で詳しく説明しましょう。

 

次ページ → 『第6章 救いを邪魔するもの』