第2章 浄土真宗と妙好人

このページでは妙好人(みょうこうにん)と呼ばれた人々についてお伝えします。

 

2-1  不思議な人々

妙好人と呼ばれた庄松(左)、源左(右)

 

あなたは妙好人と呼ばれた人々を知っていますか?

妙好人とは日本の江戸~明治時代を生きた人々です。常識とはちがう独特な言動を行ったため、彼らの逸話は『妙好人伝』という書物に記録されました。

妙好人に注目して初めて海外へ紹介したのは、欧米に禅の思想を広めたことで有名な鈴木大拙博士(1870 ~1966年)でした。見性体験(禅宗の悟り)を持つ鈴木博士は、妙好人が得た宗教的体験をくわしく研究し、禅宗の名僧と比べるほどに高く評価しました。

では一体、妙好人のどんな点が注目に値したのでしょうか? 例として、妙好人の一人・庄松(※1)の逸話を2つ見てみましょう。

 

すぐ隣は極楽浄土
庄松が旅先で病気にかかった時のことです。
知人が庄松の住む村まで送ってやり「もう地元に着いた、安心しなさい」と言うと、彼は「どこにいても、そこが極楽の次の間だ」と答えました。
(極楽・・・極楽浄土のこと。阿弥陀仏という仏様によって作られた苦悩の無い世界)
ここはまだ娑婆か?
ある日、知人らとともに船に乗った庄松は、ひどい暴風雨に見舞われました。生きるか死ぬかという緊急事態ですが、庄松一人だけがいびきをかいて寝ていました。知人たちが「一大事だぞ、なぜ悠々と寝ているのだ」と叫んで、庄松をたたき起こしました。すると彼は平然として「ここはまだ娑婆(しゃば)か?」と返答しました。
(娑婆とは現世、つまりこの世のことです。この逸話は庄松が、死ぬと同時に極楽浄土に迎え取られる、という世界に安住していたことを示しています)

このように庄松は、いつ死んでも大丈夫と言える境涯に生きていました。絶対的な安心を得ており、安心して死んでいくことができるおかげで、また安心して生きることができていたわけです。

※1 谷口庄松(たにぐちしょうま・1799 ~1871年)・・・香川県に生まれ、農業のほか子守など雑多な仕事をして暮らした。

 

源左とお軽

庄松以外にも、多数の妙好人の逸話が残されています。
彼らの記録をさらにいくつか挙げてみましょう。

因幡の源左と呼ばれた妙好人には「このまま死んで行きさえすりゃ親(阿弥陀仏)の所だけんのう。こっちは持ち前の通り、死んで行きさえすりゃええだいのう」という言葉があります。阿弥陀仏が必ず助けてくれるのだから、自分は死後に対して悩む必要など無く、ただ死んでいけばよいということです。

六連島のお軽(※3)は死ぬ前に「亡きあとに かる(お軽)をたずぬる人あらば 弥陀の浄土に 行たと答えよ」という歌を詠みました。ここにも庄松や源左と同じように、死ねばそのまま極楽浄土に生まれるのだという境涯が表現されています。

※2 因幡の源左(いなばのげんざ・1842年 – 1930年)・・・本名は足利源左。鳥取県(旧・因幡国)の農民。18歳で死別した父親の遺言を読んだことをきっかけに、寺参りして法話を聴聞するようになった。
※3 六連島のお軽(むつれじまのおかる・1801~1856年)・・・山口県六連島の農家・大森家の次女として生まれ、19歳で結婚。その後、夫の浮気に悩んだことをきっかけに、六連島の浄土真宗寺院(西教寺)に通うようになった。

 

2-2 妙好人の共通点

妙好人が生活していた場所はさまざま。

 

有名な妙好人といえば庄松・源左・お軽のほかにも、浅原才市・物種吉兵衛・前川五郎松・三河のおその・大和の清九郎・有福村の善太郎などがいます。

妙好人は出家も修行もしなかった一般人です。農家・大工・主婦など・・・、どこにでもいる普通の人たちでした。そして彼らは、それぞれ違う地域で生活していました。

では、妙好人の共通点は何でしょうか? それには次の3つが挙げられます。

 A 死ぬまでずっと、大きな安心感を得ていた
 B 死後に対する不安が解決されていた
 C 農民や大工などの一般人だった(=修行していない)

普通であれば人間は、死後に対して真面目に考えたとき、何かしら不安を感じてしまうものです。妙好人のように死後に対する不安が解決され、死ぬまでずっと安心感を得ていたというのは、特別なことと言えるでしょう。

しかも彼らは、出家や修行をしていませんでした。

なのになぜ、このような共通点を持っていたのでしょうか?
それは妙好人がみな浄土真宗の教えを聞いていたことと関係があります。

 

 

2-3 妙好人を生んだ教え

親鸞(しんらん、1173年 – 1263年)

 

浄土真宗は仏教の一派であり、鎌倉時代を生きた親鸞によってまとめられました。

親鸞は1173年に京都に生まれました。父親は日野有範(ひのありのり)、母親は吉光女(きっこうにょ)といいました。しかし子供時代に早くも母を亡くしてしまい、9歳で出家して僧侶になりました。仏道修行の本場である比叡山で20年間、修行を続けましたが、どうしても悟りは得られません。

そこで親鸞は29歳で比叡山を下りて、救われる道を求め、京都の吉水で布教をしていた法然を訪ねました。誰でも救われる教えがあることを知った親鸞聖人は、約三カ月にわたって法然の元に通いました。そしてついに救われた親鸞は、『教行信証』という書物を書いてその教えをまとめました。

 

修行する必要がない教え

仏教で悟りを得るといえば、基本的には、厳しい仏道修行を行う必要があります。代表的な修行として、滝に打たれる・座禅・断食・断眠などがあります。そうやって煩悩(苦悩を生む悪い心)を克服し、心も行ないも清らかにすることで悟りを開きます。その結果、苦しみの世界から抜け出るというわけです。

ところが浄土真宗では修行する必要がありません。自分の力で悟りを開くわけではなく、阿弥陀仏という仏様の力によって苦しみの世界から抜け出る、という教えです。(後のページでくわしく説明します)

人間は通常、死への恐怖や人生の孤独など、どうしようもないものを抱えています。しかし妙好人の言動にはそのような悲壮感は見当たらず、人生の根本的な苦しみから自由になっている印象を受けます。まるで重い荷物を誰かに預けたかのような軽やかさを感じさせるのです。

次章から浄土真宗の教えについて、くわしく見ていきます。

 

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