第6章 救いを邪魔するもの

この章では主に、阿弥陀仏の救いを邪魔しているものについて説明します。

 

6-1  迷いの原因は「疑蓋」

(疑いのフタが外れれば光が入る)

第5章でお伝えしたように、阿弥陀仏の救いは完成されています。それは「南無阿弥陀仏をとなえる者を必ず極楽浄土に生まれさせ、成仏させる」ということです。これを阿弥陀仏の本願といいます。

そして妙好人は、この阿弥陀仏の本願をそのまま疑いなく聞くことができました。

例えば妙好人の庄松には、このことをよく表したエピソードがあります。

読めないお経を読む
妙好人といわれた庄松は文字が読めませんでした。
ある時、いじわるな知り合いが庄松に「おい、お経に何が書いてあるか、読んでみろ」とお経の本を手わたしました。知り合いがほくそ笑みながら見ていると、庄松はお経を開いて読もうとしていますが、よく見るとお経は逆さまです。なぜなら庄松は文字が読めないのですから、どちらが上かも分からなかったからです。
そんな庄松が何と言ったかというと、読めないはずのお経の本を見ながら「庄松を助けるぞ、庄松を助けるぞ、と書いてある」と読んだのです。
お経は漢字だらけで庄松には読めませんが、書いてあるのは阿弥陀仏の救いです。阿弥陀仏の本願は「念仏となえる者を必ず極楽浄土に生まれさせ、成仏させる」ということです。短く表現すれば「庄松を助ける」ということなのです。

この話から分かるのは、庄松は阿弥陀仏の本願をそのまま疑いなく聞いていたということです。

しかし阿弥陀仏の本願をそのまま聞ける人はほとんどいません。むしろ「南無阿弥陀仏をとなえているけれど、救われたとは思えない」という人が多いものです。

逆に「阿弥陀仏の本願があるのならば、もうみんな救われてるんじゃないか?」と早合点する人もいます。「念仏を称える者は救われるんだから、念仏称えている人は全員救われてるはずだ」というわけです。

しかしそう主張する人でも、本願に疑いが全く無いかというと、心底からの確信は無いという人がほとんどです。

これは一体、なぜなのでしょうか?

実は私たちは疑蓋(ぎがい)というものを抱えています。疑蓋とは、疑いのフタということです。何に対する疑いかというと、阿弥陀仏の本願に対する疑いです。これがあるために、阿弥陀仏の本願をそのまま聞こうとしても不可能なのです。

 

他力信心と自力信心の違い

「阿弥陀仏の本願に対する疑い(疑蓋)」と聞いて、次のように言う人がいます。

「私は阿弥陀仏の本願を疑うような悪い心は持っていません。素直に信じています。阿弥陀様はありがたいお方だと思っていますし、お浄土に生まれさせてくださると思っています・・・」

このように言う人は他力信心と自力信心の違いが分かっていません。

ここで整理しておきましょう。

他力信心=疑蓋が外れる
自力信心=自分の力で阿弥陀仏の本願を信じる

このようになります。

他力信心の定義は厳しく、わずか毛の先ほどの疑いもあってはいけないと説かれます。チリほどの疑いも無い、100%純粋な信心だということです。

当然そのような信心は、私たち凡夫の煩悩にまみれた心で起こすことは不可能です。そのため自分の力で信じるのではなく、信じる心そのものを阿弥陀仏から与えていただく必要があります。

「きっと死んだらお浄土に生まれられるはずだ」「成仏させてもらえるはずだ」という信じ方の裏には、「でも、もしお浄土に生まれられなかったらどうしよう」「成仏できなかったらどうしよう」という小さな不安が貼り付いているものです。これが自力信心の限界であり、いつ死んでも大丈夫とは言い切れない状態です。

親鸞聖人はそのような人に対して、自力信心へのこだわりを捨てること、そして真の他力信心を得ることをおすすめしておられます。

 

獲信とは疑蓋が外れること

では他力信心を得るとはどういうことか? 何が変わるのか?

変わるのは一点だけで、疑蓋が外されるのです。阿弥陀仏の本願に対する疑いが消えるわけです。そして仏願の生起本末を疑いなく聞けるようになります。

これを「他力信心を得る」「獲信」「疑蓋が外れる」などと表現します。

(疑蓋=疑いのフタの図)

上の図を見てください。
浄土真宗では、阿弥陀仏の救いの光はいたるところに溢れていると説かれます。これはつまり、本願を信ぜしめる力(仏智の光)は世界中に満ち満ちているということです。

しかし唯一、阿弥陀仏の光が届かない場所があります。疑蓋が邪魔をして本願に対する疑いが晴れていないのです。

上図の疑いのフタを「本願疑惑心(ほんがんぎわくしん)」「疑情(ぎじょう)」「自力心(じりきしん)」「無明の闇(むみょうのやみ)」などとも呼びます。また、この疑蓋が外れていないことを未信(みしん)といいます。

(未信者の図)

 

疑蓋を取り去るのは、凡夫の努力や工夫では不可能です。

では何が疑蓋を外してくれるのか? それは他力の働きかけ、つまり阿弥陀仏の力です。

疑蓋が外れると他力信心が満入するのです(次図)。

(疑蓋が外された図)

 

疑蓋が取れれば、本願に対する疑いは二度と戻ってきません。そして阿弥陀仏の本願をそのまま聞けますので、「念仏となえる私を成仏させてくださるのだ」と信受することができます。

自分のような煩悩ばかりの者を救ってくださるとは・・・と、感謝と懺悔(ざんげ)の心が生まれます。阿弥陀仏のことを思うたびに、念仏をとなえずにおれなくなります。

なぜそんな気持ちが起こるかというと、上図のように疑蓋が外れたことで、本願を信じる心が入り込んでくるからです。

自分の中に煩悩だらけの汚れた心しかなくても問題ありません。「本願に対して感謝や懺悔をする気持ちもないし、心から念仏をとなえる気もない」という人でも大丈夫です。

あなたに本願を信じる心がなくても、疑蓋が外れれば、阿弥陀仏の方から本願を信じる心が与えられるからです。

 

 

疑蓋はどのような動きをするのか

疑蓋がある(未信である)ということは一体どういうことなのでしょうか? 疑蓋はどのような動きをするのか。

疑蓋の本質は、阿弥陀仏の本願に対する疑いです。しかし、ただ単に本願を疑う、というわけではありません。非常に特殊な動きをします。

たとえば最も一般的な疑蓋の動きは、未信者に「たとえ本願疑惑心が除かれてなくても、念仏となえていれば救われるのだろう」というような間違った理解をさせてしまう、というもの。念仏をとなえていれば自力心あるままでも極楽往生できるはず、と思い込ませてしまうわけです。

他にも、未信者に「阿弥陀仏の本願がありがたい。もう自分は救われたのだ」と思い込ませて、それ以上は不審を抱かせないようにする、というものがあります。

つまり「阿弥陀仏の本願がありがたい」という気持ちによって、疑蓋の存在そのものをカモフラージュしてしまうのです。ありがたいという感情の陰に隠れるわけですね。

疑蓋は何とか生き延びるために、色々な手段を使います。

もしも未信者が「たしかに阿弥陀仏の本願はけっこうありがたいけれど、妙好人のような感謝と懺悔の境地にはほど遠い。もしかして私は他力信心を得ていないんじゃないか?」と、気付いてしまったとします。

すると疑蓋は、未信者をあざむくために、次の手を打ちます。

例を挙げると、

・「妙好人のような感謝や懺悔が無くても、そのままのあなたを救ってくれるのが阿弥陀仏だ」という説法をするお坊さんの話ばかりを聞かせ、気持ちを落ち着かせる。
・自分の今の状態を肯定してくれる文章を探させる。お聖教の一部分や浄土真宗の学者の論文など。(たとえば『歎異抄』の第九条の一部分を読んで、不審をオブラートに包んでいる人は多い)
・「そのままの救い」「絶対他力」「疑いあるままのお救い」などの口当たりのよい言葉を探させ、不審を忘れさせる。

つまり、せっかく不審が出て来たとしても、疑蓋の動きによって誤魔化されてしまう場合がある、ということです。

未信の僧侶や学者が書いたと考えられる文章も多くありますし、疑蓋はそれらを利用してきます。「ほら、この僧侶も『疑いがあるままの救い』だと書いているじゃないか」「こんな有名な学者がこういうふうに書いているのだから、不審を抱く必要は無い」というわけです。

しかし上記のような手段でも誤魔化せない場合は、さらに疑蓋は次のような手を打つこともあります。

感動的な体験によって「これで他力信心を得たのだ!」と思い込ませる。たとえば法話を聞いて大泣きしたとか、阿弥陀仏の声が聞えたとか、まぶしい光が見えたなどの体験をした時に、「やった、これが獲信だ! 他力信心をついに得たぞ」と思い込ませ、それ以上不審を抱かせないようにする。

このようにして疑蓋は、他力信心を得させないように、あらゆる手段を使って生き延びようとします。

疑蓋にだまされて時間を浪費しないためにも、本当に阿弥陀仏の本願に対する疑いが無いのかどうか、細心の注意を払って確認する必要があります。

 

 

獲信したら肉体は用済み

獲信者は死ぬと同時に浄土に生まれて成仏します。そのため、肉体がどのような死に方をしても問題ありません。親鸞聖人は「私が死んだら遺体は川に捨てて、魚に食べさせなさい」と言っておられたほどです。

疑蓋が取れてしまえば、あとは自動的に成仏させてもらえるので、肉体は用済みだということです。

 

 

6-2 異安心(間違った信心)に気をつけよう

他力信心には正しい定義があります。それは「仏願の生起・本末を聞いて疑心が無いこと」です。疑蓋が外された人は、阿弥陀仏の本願に対する疑いがありません。

仏願の生起・本末の内容は「南無阿弥陀仏が作られた理由」「南無阿弥陀仏によってあなたが成仏すること」です。疑蓋が外れた人は、それを疑いなく信受することができるのです。

しかし昔から、間違った信心を教える人々がいました。それを異安心(いあんじん)と言います。

間違った教えに引っかからないためにも、代表的なものを挙げておきます。

・十劫安心(じゅっこうあんじん)・・・南無阿弥陀仏ははるか昔に完成されたのだから、それを忘れないのが正しい信心なのだ、という教え。つまり、疑蓋を外される必要はない、という主張です。
(なお十劫とは時間の単位で、はかりしれないほど昔ということです)

・知識帰命(ちしききみょう)・・・知識とは指導者のことです。教えを説く指導者に絶対服従しなさいという主張であり、阿弥陀仏よりも指導者を重要視します。これは大きな間違いで、浄土真宗ではあくまでも阿弥陀仏に帰命します(帰命するとは、阿弥陀仏の本願を疑い無く聞くということ)。そして浄土真宗の正しい指導者は「阿弥陀仏に帰命しなさい」と教えます。

・無帰命安心(むきみょうあんじん)・・・「阿弥陀仏に帰命する必要は無い」とする主張。つまり、疑蓋を外される必要はないというもので、十劫安心と同じ特徴を持っている。

・学解往生(がくげおうじょう)・・・「経典や聖教をしっかり学ばなかった人は、極楽浄土に生まれられない」という主張。これは「どのような劣った衆生も救う」という阿弥陀仏の本願に反します。たとえ文字が読めなくても無学でも、阿弥陀仏の救いには関係ありません。

 

6-3 仏願の生起本末を聞くときの注意点

阿弥陀仏の本願(十八願)においては、誰もが同じ救いを得ます。法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人、妙好人はすべて、疑蓋が外されたということです。彼らはみな、仏願の生起本末をそのまま疑い無く聞いていた=他力信心を得ていたのです。

ところで「仏願の生起本末をそのまま聞くだけ」というと、とても簡単なことのようにも思えます。しかし実際には、先入観や思い込みが邪魔をして、正確に聞けなかったり誤解したりする人がとても多いです。妙好人の中には、聴聞を始めてから二十年以上も悩んだ人もいます。

いったいどんなところで引っかかりやすいのでしょうか?

 

主な間違いは「自分の思いを優先してしまうこと」

浄土真宗の寺院では法話(ほうわ)といって、阿弥陀仏の救いについてお坊さんが話をして、集まった人々がそれを聴聞(ちょうもん)します。聴聞とは阿弥陀仏のお話(仏願の生起本末)を聞くことです。しかし聴聞する人々の中で、妙好人・庄松のようにそのまま聞けている人はとても少ないものです。

例えば「南無阿弥陀仏を称える者は、極楽に生まれて成仏する」という法話を聴聞した人々から、以下のような反応をよく耳にします。

 「作り話のように感じます」
 「念仏するだけで成仏できるとは思えない」
 「救われた気がしない。妙好人のような境地にはほど遠い」

これはある意味、普通の反応だといえます。なぜなら浄土真宗は凡夫が成仏する教えであり、人間の常識からはかけ離れた内容となっているからです。そのため「私には作り話としか思えない、理解できない、分からない」という思いを優先させてしまいがちです。

しかしその姿勢では、いつまでたっても仏願の生起・本末を正確に聞くことができません。

上記のような自分の思いにこだわる人は、阿弥陀仏のお話をそのまま聞いてはいないことになります。なぜなら自分の思いを優先しているからです。阿弥陀仏のお話よりも、自分の思いを優先して聞いているわけです。

(阿弥陀仏のお話ではなく、自分の思いを優先している図)

 

ここで問題となるのは、阿弥陀仏のお話を正確に聞いていないことです。なぜなら「どのような劣った衆生をも救う」というのが阿弥陀仏の本願であり、もしあなたに「作り話としか思えない」という気持ちがあっても、阿弥陀仏の救いの妨げにはならないからです。

このように、自分の気持ちにばかり注目していると、うっかり阿弥陀仏の本願を聞き間違うことになります。

ですので、自分の気持ちを優先するのではなく、阿弥陀仏のお話を優先して聞いてください。

ただし、自分の気持ちをごまかしたり無理に何かを思い込もうとする必要はありません。例えば自分の中に「作り話としか思えない、理解できない」という思いがあっても、それは問題ありません。むしろ、そういう自分を隠さず、正直に認めることが大切になります。

そして、そういう自分を認めた上で・・・阿弥陀仏のお話を「作り話のようだ」と感じてしまう自分に対して、阿弥陀仏はどんな約束をしてくださっているのか? これを正確に聞いていくのです。自分の思いを中心にするのではなく、阿弥陀仏の願いを中心にして聞いていく、ということです。まずはここを押さえておいてください。

阿弥陀仏の救いを聴聞しても、自分には作り話としか思えない。けれども・・・そんな自分に対して阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏をとなえる者を、極楽に生まれさせて成仏させる」と約束しているのだ、と聞くのです。

 

3つの聞き間違い

さてここで、よくある聞き間違いを具体的に3つ挙げておきます。陥りやすい点なので注意してください。

1、「○○○だから私はまだ救われないはずだ」と考えてしまう・・・これは単純に、差別の無いはずの阿弥陀仏の救いを、聞き間違えていることになります。

「阿弥陀仏の本願を理解できない」「阿弥陀仏の存在を信じられない」「無常を感じられない」「自分がいつか死ぬとは思えない」「罪悪を感じられない」「因果の道理が信じられない」「極楽や地獄があるとは思えない」など・・・。そのような理由で「だから自分はまだ救われないはずだ」と考える人が多くいます。これはどのような劣った衆生も救う本願に、自分から条件を追加している状態です。

しかしどのようなあなたであっても、救いの妨げにはなりません。阿弥陀仏はそういう思いがあるあなたを救う、と誓っておられます。どのように劣ったあなたであっても救うのだ、ということです。極端な言い方をすれば、「念仏をとなえているあなたは、どれだけ嫌がっても仏になってしまうのだ」という誓いなのです。

2、努力して聴聞を続ければ救われるはずだと考える・・・これもよくある間違いで、救いを延期してしまっています。阿弥陀仏の本願は「念仏となえる者を成仏させる」というものです。それを、今ここで、そのまま聞けばよいのです。

しかし「聴聞を続けないと救われないはずだ」と考える人は、救いを未来に置いています。阿弥陀仏は今のあなたに対して「念仏となえる者を成仏させる」と誓っておられます。にもかかわらず、聴聞を続ければ救われるはずだと思い込んでしまう。

そうすると、阿弥陀仏の本願の内容がちがうものに変わってしまいます。差別の無いはずの本願が、「努力して聴聞し続けた者のみを成仏させる」というものに変わってしまうのです。

このような聞き間違いも多いので、気をつけてください。

3、勝手に疑蓋が外れたと思い込む・・・聴聞していく過程で自分の罪悪や煩悩を知っていくと、大きな感動を味わう場合があります。「こんな罪悪ばかりの自分を救ってくださるのか!」と涙を流して感謝や懺悔する人もいます。そしてその体験をもって、自分は疑蓋が外れて他力信心を頂いたのだ、と勝手に決める人がいるのです。

他にも「長年お寺に通っているから他力信心は頂いたはず」という人もいます。珍しいところでは「私はお坊さんの子供として育ったから他力信心は頂いていると思う」「なんとなく、いつの間にか自然と、他力信心を頂いた気がします。そんなに仏願を疑ったことは無いですね」という人もいます。

これらはいずれも間違いです。感動体験と他力信心は違います。また疑蓋が外れなければ、自分に疑いの蓋があったということを明確に認識することはできません。

どちらにしても疑蓋が外れていなければ、他力信心に似たものを得ただけの状態なのです(下図)。

(他力信心を頂いたと思い込んでいるが、実は疑蓋が外れていない図)

感情の高まり・聴聞の年数・お寺の生まれかどうか・・・これらは疑蓋が外れたかどうかとは全く関係ありません。

このような「○○○だから、私はもう救われているはず」という聞き間違いは、よくあります。これは阿弥陀仏の願いを正確に聞いていない状態です。なぜなら差別の無いはずの阿弥陀仏の本願を、「○○○な人だけを救います」という条件つきのものに変えてしまっているからです。広大な阿弥陀仏の救いが、条件つきの小さな別ものになってしまっています。

あくまでも仏願の生起・本末を疑いなく聞けるかどうかが分かれ目なのです。三日三晩泣き続けても、50年間ずっと仏願を喜び続けても、関係ありません。感情や思い込みに踊らされないよう、気をつけましょう。

 

最大の間違い

この3つの聞き間違いの中で一番注意してほしいのは、最初の1、「○○○だから私はまだ救われないはず」と考えてしまうことです。

自分の罪悪や煩悩を知っていくと、こんなことを言い出す人がよくいます。

「自分が罪悪を抱えて迷っているのは分かりました。確かに救われないといけないと思います。ですが私はまだ疑蓋が外れていない気がします。だって念仏をとなえても救われた実感が無いですし。私はどうすれば救われるんですか?」

これは聴聞における最大の間違いです。なぜなら「自分にはまだ救いの手が届いていない」という前提で聴聞しているからです。これは阿弥陀仏の本願の内容とは、まさに反対の考えです。

ここまで読んできた人は分かると思いますが、「念仏をとなえても救われた実感が無い」というのは、自分の側の気持ちです。自分の気持ちを優先しているのであり、「念仏となえる者を成仏させる」という阿弥陀仏の本願を聞いていない状態です。「念仏をとなえても救われた実感が無い、だから私はまだ救われないはずだ」と思い込んでいるわけです。

阿弥陀仏の救いは、どのような人にも届いています。念仏をとなえていながら救われた実感がないという人に対して、そのような者を必ず成仏させる、と誓っておられるのです。

この「○○○だから私はまだ救われないはずだ」という聞き間違いはよくあります。しかしこれでは、いつまでたっても阿弥陀仏の願いを正確に聞くことができません。なぜなら差別が無いはずの阿弥陀仏の本願を、「○○○な人は救いません」という条件つきのものに変えてしまっているからです。広大な阿弥陀仏の救いが、小さな小さなものになっているのです。

このような間違いを修正するためには、一度、自分の中の思い込みを書き出してみてください。

もしもあなたが「まだ救われていないはず」と思っているならば、どんな小さな理由でもかまいませんので、それを書いてみてください。

 ・~~~だから、まだ救われていないと思う。
 ・~~~だから、まだ救われていないと思う。
 ・~~~だから、まだ救われていないと思う。

 

書きましたか?

 

では、そのようなあなたに対して、阿弥陀仏はどう約束しておられるでしょうか?

阿弥陀仏の本願の内容は「念仏となえる者を極楽浄土に生まれさせ、成仏させる」です。

あなたの中にどのような気持ちがあってもかまいません。しかし自分の気持ちにばかり注目していると、阿弥陀仏の本願を正確に聞くことはできません。

「○○○だから、自分はまだ救われないはずだ」というのは、あなたの思いです。その思いはいったん横に置いて、阿弥陀仏の本願を正確に聞きましょう。

 

救われるはずのない者が救われる

自分の煩悩や罪悪を知れば知るほど、「こんな自分は救われないのではないか」と思ってしまうかもしれません。

もしくは無常・罪悪・因果の道理・阿弥陀仏の本願・念仏など、いくら教えを聞かされても実感がわかない人もいるでしょう。そんな人は、自分はまだ救われないはずだ、と思うかもしれません。

しかしそれは逆です。阿弥陀仏の視点に立てば、そのようなお粗末な人こそがお目当てです。「なるほど、こんな自分だからこそ、阿弥陀仏から救いの手が届いているんだな」ということなのです。

どのような悪人も、どれほど劣った人も、どんなに駄目な人間でも、阿弥陀仏の救いの対象です。「救われるはずのない者をも念仏をとなえさせ成仏させよう」というのが阿弥陀仏の願いです。

救われ難いあなたがいるからこそ、南無阿弥陀仏が作られ、あなたの口に届けられているのです。

あなたが自力で成仏できるのならば、南無阿弥陀仏は必要ありませんでした。救われ難いあなたが、阿弥陀仏に南無阿弥陀仏を作らせたということです。

阿弥陀仏の救いの対象はあなたなのです。

 

仏教嫌いが念仏となえる不思議

一般的に仏教を求めるのは、善行したい人や自分の罪悪を深く反省する人たちです。しかし浄土真宗においては、かなり事情が違います。

というのは、仏教嫌いな人でも聴聞しに来ることがよくあるからです。

普通に考えれば、罪悪や無常を実感した人が聴聞しに来るはずです。自分の罪がおそろしい、もう輪廻をくり返したくないという人こそが他力の救いを求めるはずでしょう。

しかし実際はちがいます。罪悪も無常も知識としては理解できるが、心の底では実感できない・・・そんな人々も聴聞に来るのです。
これはよく考えれば不思議なことです。罪悪や無常を実感できなければ、自分が悪い世界へ行くとは思えないので、輪廻をおそれることもありません。当然ながら、浄土真宗の教えを聞く理由も生まれません。

しかしそのような人も浄土真宗の教えを聞きに来ます。なぜでしょうか?

それは他力の救いだからです。私たちに仏教を求める力が無くても、阿弥陀仏の力によって引っぱられるわけです。

阿弥陀仏はどんな劣った衆生にも働きかけています。罪悪、無常、因果の道理を心底からは実感できない人でも、なぜか浄土真宗の教えを聞くようになり、念仏をとなえるようになるということです。

「念仏となえる者を極楽浄土に生まれさせ、成仏させる」という阿弥陀仏の本願は、ただの作り話ではありません。現に今ここに、生きて働いているのです。

 

いよいよ次章では、仏願の生起本末について具体的に説明していきます。

 

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