法話の聴聞ガイド

このページでは浄土真宗の聴聞について説明をします。

浄土真宗において法話とは、阿弥陀仏の救いについてお坊さんが話すもの。

そして法話を聞くことを聴聞(ちょうもん)といいます。

昔はお寺に行かないとお坊さんの法話は聴聞できませんでしたが、現代はインターネットで聴聞できるわけです。

私の場合は、インターネットを利用して、法話や座談会を行います。

 

対象者は?

どなたでも参加できますが、基本的には以下の2つを読んだ人が対象となります。

note『死ぬのが怖い人へ』
https://note.mu/ryuun18/m/mdef818dfed16

サイト『ゼロからわかる浄土真宗』
http://amidabuddha18.com/

なぜ上記のサイトを読んで頂きたいかというと、法話で話す内容が仏願の生起本末だからです。

仏願の生起本末を知らない人は、いきなり参加しても意味が分からないかもしれません。

noteとサイトを合わせても20ページほどですので、時間を見つけて読んでいただければと思います。

 

なぜインターネットなのか?

インターネットでの法座活動に対しては色んな意見があり、時には「法話はお寺に足を運んで聴聞すべきだ」という主張も目にします。

確かに・・・直接お坊さんに会うことで得られるものもあるでしょう。

しかしインターネットにも大きな利点があるのです。

まず「お寺に行くのは敷居が高い」という人にとって、ネット法座は仏教に触れるよいきっかけとなります。

また病気などでお寺に行けない人にも朗報でしょう。

スマホがあれば視聴も配信もできる・・・法話を聴聞する側にとっても、法話を説く側にとっても、場所や時間を選ばなくてよい時代になりました。

しかしそれだけではありません。

というのも、浄土真宗で聴聞していくと色々な疑問が出てくるため、質疑応答によって疑問を解いたり聞き間違いを修正していくことが大事になります。

妙好人たちも未信だった時期には、聴聞で悩んだという記録が残されています。例えば因幡の源左さまや六連島のお軽さまは、疑問や不審を解くために僧侶へ質問を繰り返していました。

*  *  *  

さて、ここでもし、お坊さんと対面しなければ質問に答えてもらえないとなると、一気にハードルが上がります。

現代のお坊さんは忙しいので法座が毎日あるわけではありませんし、あなたがうまく休日を取れて法話会に参加できたとしても、質疑応答の時間が無い場合もある。

また「お坊さんに面と向かって聞きたいことを質問する」という場面になると、緊張する人が多いようです。

さらに「今さらこんなことを聞くのは恥ずかしい」「少し調べれば分かる、と怒られないだろうか」「馬鹿にされないだろうか」など、心配をする人もいます。

その結果、あたりさわりの無い質問に変えてしまったり、お坊さんにうまく伝わらなかったり。もしくはお坊さんに答えてもらっても、緊張でよく理解できなかったという声も聞きます。

このように対面での質疑応答は、緊張しやすい人にとっては特に、難しいものなのです。

*  *  *  

インターネットでは対面せずにコメントなどができるわけで、本音を言いやすいのは間違い無いでしょう。

例えば、長年の門徒(真宗信者)だからというプライドが邪魔をして、「信心が分からない・・・」という単純な悩みを、何十年も言い出せなかった人々がいます。

こういった悩みも、もし顔を見られなければ、もっと気軽にコメントやDMで相談できたかもしれません。いわゆる匿名希望の相談みたいなものですね。

実際、対面よりもはるかに率直に、疑問や不審を問える人が多い。

ネットの匿名性は、聴聞においてこのようなメリットを与えてくれるのです。

 

聞法のサイクル

さて、浄土真宗に興味を持った人は、どのように教えに親しんでいくのがよいのでしょうか?

すぐに本願疑惑心を除かれる人はよいのですが、そのようなケースはほとんどありません。

ですのでまず最初は、教えの要点を理解することが重要でしょう。

その後で「聴聞する → 疑問や不審を出す」ことを繰り返すのが、聞法の基本的なサイクルになるかと思います。

この流れをサポートする仕組みとして、note『死ぬのが怖い人へ』サイト『ゼロからわかる浄土真宗』、そしてインターネット法座を用意しました。

ネット上に文章を公開して教えを理解してもらい、そしてインターネット法座に参加してもらうというのが、現代における伝道の形の1つだと私は考えています。

なぜなら現代人は仕事・家事・学業・娯楽などに時間を奪われて、忙しい人が多い。

時間とは命そのものですから、余計な時間を使わないで済むようにこの仕組みを作ったわけです。

 

 

疑い無き「聞」とは?

法然聖人・親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人、そして妙好人と呼ばれた庄松様やおその様など・・・この方々に共通するものは何か、分かりますか? 

それは獲信者(ぎゃくしんしゃ)だったということです。

獲信とは本願疑惑心を除かれることであり、これを「他力信心を獲得する」とも表現します(※『死ぬのが怖い人へ』『ゼロからわかる浄土真宗』参照)。

そして獲信した人は、仏願の生起本末を疑い無く聞くことができます。

妙好人の記録を読むと、常識では理解できない言動が出てきますが、それらは疑い無き聞信から生まれたものでした。

では妙好人はどのように聴聞していたのか? それを具体的に示すエピソードを梯実圓著『妙好人のことば』から紹介します。

登場するのは、当時日本一の僧侶と言われた香月院深励師(1749~1817年)、そして妙好人と呼ばれた三河のおその様です。

このエピソードの中では、香月院師が仏願の生起本末の要点を説き、おその様がそれを疑い無く聞く姿が読み取れます。

香月院師とおその様のエピソード

その頃、東本願寺きっての学僧に香月院深励(こうがついんじんれい)という講師がおられました。

おそのは上京したときは、よく香月院からお話をきいたそうですが、あるとき和上が三河の御坊へ一泊されたことがございました。

それは西本願寺におこった三業惑乱(さんごうわくらん)という事件の決着がついたときのことだといいますから、弘化二年(一八四五)の夏だったとおもいます。

香月院は、東本願寺を代表して、江戸へ行き、事件のなりゆきをみとどけておりましたが、寺社奉行の判決がくだると、すぐさま東本願のご門主に報告をしなければなりませんので、大急ぎで京都へ帰る途中、たまたま三河の御坊に一泊されることになったわけです。

和上がお泊りになっていることを知った別院の世話方は、こんな機会はめったにないというので、せめて一座だけでも御法話をお聞かせいただきたいとお伺いをたてたところ、それでは明朝、お晨朝のあとで、一座だけお話をしようと承諾が出ました。

よろこんだ世話方たちは、夜のうちに近郷近在にそのむねをつたえると、日本一の御講師さまの御法話が聞けるというので、夜のあけきらぬうちから、ぞくぞくと参詣してきて、さしも広い本堂も身動きのできぬほどになりました。

やがてお勤めが終り、香月院は静かにお高座にあがられると、

 「此度は、急ぎの旅で、ゆっくりとお話しているひまはない。しかしせっかくの御法縁をめぐまれたのじゃから、ただいまから阿弥陀如来さまのお申しわたしを一言お伝えする。各々、心をとめて、聴聞せられよ」

といいますと一座はしーんと静まりかえりました。

「そのお申しわたしというのは、たとい十悪五逆の罪人であろうとも、われをたのめ、必ずたすくる・・・・・。これが如来さまのおおせじゃ。まず今日はこれにて失礼をする。」 

これだけ云い終ると、サッサと高座をおりてしまいました。

朝の暗いうちからつめかけ、いま天下をにぎわせている三業惑乱のはなしなどを、きかせてもらえると思って集まってきた聴衆は、一瞬あっけにとられていたが、和上の姿が本堂から消えると、

 「いくらご講師さまじゃとて、これじゃあんまりあっけなさすぎる。鶴の一声も、ものによりけりじゃ。もう一度お説教を願わにゃ帰れぬわい」

というので、堂内が、ざわざわとさわぎはじめたとき、お高座のすぐ下で、身じろぎもせずにじーっと和上のお話をきいていた老婆がすーっと立ち上がると、

 「ありがたいことじゃのう。百のものを十につづめ、十のものを一つにして、ようこそ親さまのおおせをお知らせくだされた。こんなにうまいことは、ご講師さまでなけりゃ、聞かれぬことじゃ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

というなり、ガヤガヤさわぐお同行たちをしりめにさっさと帰っていったが、それがおそのでございました。

本願のかなめを、たった一言で言い切った和上も立派ですが、その一言を打てばひびくようにあざやかに受けとめたおそのの領解もすばらしいものでございます。

梯実圓著『妙好人のことば』より。※太字の強調は久保がつけました)

香月院深励師の「たとい十悪五逆の罪人であろうとも、われをたのめ、必ずたすくる・・・・・。これが如来さまのおおせじゃ」という短い言葉は、仏願の生起本末の要点を表しています。

そして獲信者は仏願の生起本末を疑い無く聞けますから、おその様は聞くべきことを聞いてさっさと帰られたわけです。

これが法然聖人・親鸞聖人から妙好人まで共通する他力信心の有様なのです。

 

他力信心は完璧な無疑

ところで「仏願の生起本末を疑い無く聞く」と言いますが、どれくらい疑いが無いのでしょうか? 

それは文字通り全く無い=疑い0%です。

この「疑い無き聞」のことを、江戸時代の名僧・香樹院徳龍師は次のように表現しました

「疑い晴れた」とは

 『この私は、今死んでどこへ行く?』と思うてみられよ。

 今晩死んでも極楽へ参る、と思われる人は少なかろう。

 ここが信を得たか、得ぬかの分かれ目じゃほどに。

 信を得た人は、今死んだならばと思うてみれば、いよいよお浄土参りの人数になりて喜びます、と返事のできる身でなければ、疑い晴れたではないほどに。

 よく聞き分けて、聞くが上にもよく聞けよ。

つまり「もし今晩死んだとしても、極楽浄土に行く」というのが、疑い無き聞の有様なのです。

なお上記の香樹院徳龍の教えは、妙好人・庄松様の「どこにいても、寝ているところが、極楽の次の間(ま)だ」という言葉と同じ内容を示しています(※『ゼロからわかる浄土真宗』第2章を参照)。

 

2種類の疑い

ではこの「仏願の生起本末に対する疑い」とは、具体的にはどんなものなのでしょうか?

疑いといえば、誰でも日常生活の中で疑いを持つことはあります。「あの人はウソをついてるんじゃないか?」「この商品は本物だろうか?」といった疑いです。

しかし浄土真宗においてはそのような一般的な疑いは問題にしません。

なぜなら人間には欲望、怒り、憎しみ、そして疑い・・・いわゆる煩悩がたくさんあります。

そして浄土真宗では煩悩は死ぬまで無くならないと教えるのです。

したがって「あの人はウソをついてるのでは?」「このダイヤは本物か?」というタイプの疑いは、無くならなくてよいわけです。

しかし、ある特別な疑いだけは無くなるべきであり、それが阿弥陀仏の本願への疑い、つまり仏願の生起本末専用の疑いなのです。

これを本願疑惑心(ほんがんぎわくしん)とか疑蓋(ぎがい)と呼びます。

では妙好人たちはいつの時点で本願疑惑心が無くなったのでしょうか? 

彼らが浄土真宗の教えを聴聞する前は、まだ本願疑惑心があったことになります。

お寺で法話を聞くようになってからも、獲信できずに長い間ずっと悩んだという記録が残されています。

つまり私と同じように、阿弥陀仏の本願が分からずに悩んでいた時期があるということです。

ですが妙好人たちは、ある瞬間を境に、阿弥陀仏の本願を真実として聞けるようになっています。つまり本願疑惑心が除かれた(獲信した)わけです。

図で説明すると以下のようになります。

この図のような変化が起きたことになります。では何が変わったのか? それはたった1点だけで、阿弥陀仏の本願に対する疑いが無くなったのです。

ちなみに獲信のことを「疑蓋(ぎがい)が外れる」とも表現されます。

これはどういうことかというと、阿弥陀仏の誓いに対する疑いの蓋(ふた)が取られる、という意味です。

 

上の図のように、最初は疑いの蓋が邪魔をして、仏願の生起本末を疑い無く聞くことができません。
 
そして獲信すると、下の図のように疑いの蓋が外れて、仏願の生起本末を疑い無く聞けるようになります。

 
妙好人たちは獲信していた、つまり「本願疑惑心が無かった=疑蓋が外されていた」ということになります。

例えば妙好人・因幡の源左さまをモデルにしてみますと、下の図のようになります。

 

獲信前(未信)の源左さまには、まだ疑蓋がありました(図の左側)。

しかし獲信後には、疑い無く阿弥陀仏の本願を聞くことができました(図の右側)。

妙好人の独特な言動は、疑蓋が外されたことによって生まれたものなのです。

 

なぜ本願疑惑心が問題となるのか

ところで、なぜ本願疑惑心を除去されることが大事なのでしょうか?
 
それには「なぜ仏道修行に挑戦すらしない凡夫が仏に成れるのか?」を考えれば分かります。
 
浄土真宗においては、極楽往生して成仏するタネ(因)は、阿弥陀仏からプレゼントされる他力信心。つまり本願疑惑心を除去されることです。
 
だからこそ本願疑惑心が除去されたかどうか・・・これが重要視されるのは当然の帰結ということになります。
 
他力信心の定義は「仏願の生起本末を聞いて疑いあること無し」です。

他力信心を得た者(獲信者)は極楽浄土に往生して仏と成る、と親鸞聖人は記しておられます。

 

 

浄土真宗の法話のあるべき姿

インターネットで浄土真宗の法話を探している人々から、時々、法話のページや動画を教えてもらうことがあります。

そして「何かおかしな感じがしたんですが、こういう法話も浄土真宗の教えと言えるのでしょうか?」という質問を受けます。

そこで法話の内容を確認してみると、単なる道徳的な話であったり、阿弥陀仏がまるで創造主みたいな存在として説かれていたりします(キリスト教の神のように)。

それらの法話が浄土真宗の教えだと言えない理由は、成仏や本願疑惑心といった要点が抜けているから。

正統な教義にのっとった法話は、要点を押さえてあります。

例えばこちらの大峯顕師(哲学者・龍谷大学教授)の法話でも、17分すぎから「お浄土を頂かないと信心ではない」という話が出てきます。

大峯顕師 「後生の一大事」を心にかけて
https://www.youtube.com/watch?v=Ex2NGgQha34

これは本願疑惑心が除かれることが他力信心だ、ということです。

なぜなら「お浄土を頂く」ということは、仏願の生起本末を疑い無く聞くことだからです。

妙好人と同じように、「念仏する者は極楽浄土に生まれて仏に成る」ということを疑い無く聞くわけです。

 

未信のお坊さんへ

浄土真宗のお坊さんから「私は未信なのですが、このまま法話をしていてもよいのでしょうか?」という相談を受けることもあります。

たしかに本願疑惑心が晴れていなければ、法話で何を説くべきか確信を持つことも出来ないでしょう。

ズレた法話を説き続けてしまえば、聴聞する人々を迷わすことになるので、当然そのようなことは避けるべきだと言えます。

しかし今後、一般人の動画撮影がどんどん広まっていくでしょう。お坊さんの法話をスマホで動画撮影してアップする・・・というのも、当たり前に行われるようになると考えられます。

なぜなら現在でも「お寺に来れない家族や友人に法話を聞かせたい」という需要があるからです。

そしてアップされた動画はインターネット上に残り続けます。

もし間違った内容の法話をアップされてしまえば、ネット上でそのお坊さんの分身が間違った教えを話し続けることになるのです。

この意味で、ネット時代に教えを発信する側には大きな責任がある、と言えるでしょう。

ですのでこの怖さを知っているお坊さんは、全国各地で法話をしているベテランであっても「自分の法話をネット公開する勇気は無い」と言う人もいます。

100年後までネット上に残っても恥をかかない内容・・・そういうものを発信すべき時代なのです。

 

では、どうすればよいのか?

ここで1つ、現実的な案があります。

それは法話で仏願の生起本末を正確に説き、「私も一緒に聞かせて頂きます」と言って、自分の耳でそれを聴聞することです。

これならば聴衆に正しく法を説くことになりますし、また自分の聞法にもなります。

なおこの態度は、法話者のあるべき姿とも言えます。

なぜなら、法話者(僧侶)といっても一人の凡夫であり、阿弥陀仏の本願によらなければ仏に成れない身だからです。

つまり「聴聞するのは信者だけ。僧侶は話す役割だから信者よりも偉い」というような教えではないということです。

* * *

では仏願の生起本末を聴聞してみて、もし疑い無く聞信できなかった人は、どうするべきなのでしょうか。

浄土真宗者としては当然、聴聞をやり直し、不審を出していくべきです。

中には「自分は僧侶なのに、聴聞をやり直すなんて恥ずかしい、プライドが許さない」 と考えるお坊さんもいます。

しかし浄土真宗の教義からいえば、信者も僧侶もともに阿弥陀仏の救いの対象ですから、本当はそのようなプライドにこだわる必要は無いのです。

* * *

本来、浄土真宗の法話では何を話すべきなのでしょうか?

繰り返しになりますが、その答えは仏願の生起本末です。

これは前述のエピソードで香月院師が短く説いてさっさと帰ったもので、おその様もそれを疑い無く聞いてさっさと帰りました。

あとに残されたのは「法話が短い」と言って不満を口にしていた信者たちです。

つまり獲信者も未信者も聴聞する内容は同じ。

どちらも仏願の生起本末を聴聞するのですが、疑い無く聞ける人とそうでない人がいるということです。

※なお法話によっては、お釈迦様のご生涯などを説明する場合もあります。

しかしそれらは、あくまでも仏教に親しんでもらう段階のお話です。

本来、浄土真宗の法話で説くべきものは仏願の生起本末であり、それを疑い無く聞けるのが他力信心の念仏者なのです。

 

獲信者にとって法話者は誰でもよい

法話はどんなお坊さんから聴聞するのがよいのでしょうか?

常識的に考えれば、人格的にも学問的にも優れた偉いお坊さんに法話してもらう方が、ありがたい気がするかもしれませんね。

ですが実は、獲信者にとって法話者は誰でもよいのです。

他力信心を得た人は阿弥陀仏の本願を疑い無く聞くことができます。

こうなるともう、法話をするのが誰であろうと関係なくなります。

別に偉いお坊さんでなくてもよくなるのです。

例えば妙好人・大和清九郎さまは、子供にお菓子をあげて「清九郎、そのまま来いよ」と言わせ、それを聞いて喜ばれたという記録が残っています。

「そのまま来いよ」というのは阿弥陀仏の呼び声を表現したもので、より具体的に言えば「仏願の生起本末を疑い無く聞きなさい」ということです。

子供にお菓子をあげて「そのまま来いよ」と言わせ、清九郎様はそれを聞いて喜んでおられた・・・つまり仏願の生起本末を疑い無く聞いて喜んでおられたわけです。

また妙好人の庄松さまが病床につかれたとき、知人に蓮如上人の御文章を読んでもらい、それを聞いて、ああ大丈夫だ、と喜ばれました。

この疑い無き聞信こそが他力信心の本質なのです。

つまり誰が法話するかが重要なのではなく、問題は聴聞する側にあるということです。

 

 

誤解され続ける他力信心

『ゼロからわかる浄土真宗』第6章にも書きましたが、昔から他力信心は誤解されてきました。

他力信心の定義とは「仏願の生起本末を聞いて疑いが無い」というもの。

しかし全く異なる信心を広めようとする人々がいたのです。

例えば鎌倉時代には「名帳(※)に名前を書いてもらったら極楽往生が決定するのだ」と主張する指導者もいました。

(※名帳・みょうちょう・・・信者の名前を記す名簿ノート。)

現代人の感覚からすれば「お坊さんに頼んでノートに名前を書いてもらえば、極楽に往生できるのか?」と疑問に思うところですが、当時はその主張が支持を受けて大流行したのです。

他にも土蔵秘事・学解往生・疑心往生・知識帰命・十劫安心・一念覚知・歓喜正因・三業帰命・地獄秘事など・・・。

たくさんの間違いが生まれました。

そういった間違いを正すために、お聖教と呼ばれる『歎異鈔』『改邪鈔』『御文章』などで、正しい他力信心はどういうものなのかが説明されてきました。

浄土真宗の歴史は、間違いと戦い続ける歴史とも言えるのです。

 

『歎異鈔』ですら誤解されやすい

さて、さきほど『歎異鈔』の名前を挙げました。

その名の通り、親鸞聖人とは異なる信心を歎いて書かれたもので、文章が美しく、文学的で人気の高い書物でもあります。

ですが・・・実はこの書物すらも誤解されやすいものです。

たとえば歎異鈔の第九条には、以下のやりとりが記されています(※元の文章は古文ですが、久保が現代語訳しました)。

『歎異鈔』第九条より

質問者:「念仏を称えていますが、喜びの心は少なく、また急いで極楽浄土へ参りたいと思う心が起こってきません」

親鸞聖人:「私も以前、その不審を持っていた。よくよく考えてみると、極楽浄土に生まれるということは、天におどり地におどるほど喜ばなければならないこと。そのことを喜べないからこそ、よりいっそう極楽往生は間違いないといただくべきなのだ」

この前半部分だけに注目して

「そうか、喜びの心が少なくても極楽浄土に参りたいと思えなくても、別にいいんだ。他力信心を得ても喜び心は少ないし、極楽浄土に参りたくなるわけでもないんだ。他力信心とはその程度のものなんだ

と考える人は多いです。

さらに勝手な解釈をして、

「私も喜び心は少ないし、極楽浄土に参りたいとも思えない。極楽浄土に生まれられるかどうかも確信が持てない。でもきっと私は他力信心を得たんだと思う。だって歎異鈔にそう書いてあるんだから」

と決めつける人もいます。

これは客観的に見ると強引な解釈ですが、このような人は少なくありません。

しかし第九条の後半部分をきちんと読むと、親鸞聖人は「喜べないからこそ、よりいっそう極楽往生は間違いない」と、極楽に往生するという確信を得ておられます。

ですので「極楽浄土に往生できるかどうかも確信が持てない」という人とは、明らかに違うのです。

つまりお聖教の一部分だけに注目し、文脈を無視して、自分に都合よく誤読してしまう人々がいるということです。

みなさんはどうか、このような間違いをしないようお気をつけ下さい。

 

現代まで続く間違い

他力信心に対する間違いの中では、江戸時代に起きた三業惑乱という事件が有名です。大騒動になり死者まで出ました。

この事件をきっかけに、教義を整備する必要性が明らかになりました。二度とこのような事件が起こらないように、教義を正確に体系化しようとする動きが活発になったわけです。

その後は『真宗異義異安心の研究』(大原性実 著)などによって間違った信心(異安心)についての研究も進み、分かりやすい間違いは減りました。

では現代においては正しい他力信心を得た人ばかりかというと・・・そうではありません。

以下のように石田慶和師(龍谷大学名誉教授)は、獲信者の少なさを指摘しています。

『浄土の慈悲』346ページより

近ごろは、み教えの筋道は大体よく理解されているようですが、親鸞聖人のおすすめになった如来回向の信心をほんとうにわがものとして、聖人とともに仏さまのお慈悲をよろこんでいる人はそれほど多くはないのではないでしょうか。

また稲垣久雄師(龍谷大学名誉教授)は、

『信心獲得のすすめ』19ページより

蓮如上人の時ですら多人数のなかで一人か二人が信心を得た人であったというのに、雑物が九十九パーセントで本物が全く見えない今日、どこでどのように純粋他力の教えを聞くことが出来るでしょうか。

と、「雑物が九十九パーセントで本物が全く見えない」とまで言い切っています。

ではどんな間違いが広まっているのでしょうか?

先ほど「分かりやすい間違いは減った」と書きましたが・・・その代わり、分かりにくい間違いが広まっているのです。

 

分かりにくい間違い①

1つ目の分かりにくい間違いは、

「たとえ自分の方に疑い(本願疑惑心)があっても、阿弥陀仏の方には私を救うということに疑いが無いのだと聞かされ、自分の疑いが無意味化されること。これが他力信心である」
 
というもの。
 
一見すると正しそうですが、そこには明らかな問題があります。

なぜなら本願疑惑心が残ってもよいことになるからです。

疑い(本願疑惑心)が無意味化されただけでは、まだ疑いが「有る」状態となります。
 
この「疑い(本願疑惑心)が無意味化=他力信心」という説は、疑いが残ることを許容しているため、他力信心の定義としては誤りです。

しかし一見しただけではまるで他力信心を正しく説明しているようにも見えるため、その違いが分かりにくい。
 
そして他力信心が得られずに悩んでいる人にとっては、

「私に本願疑惑心があっても、阿弥陀仏には私を救うことに疑いが無いんだ。それを聞くだけでよかったんだ」

と、とても都合よく自分の状態を肯定することができてしまう。いわば落とし穴のようなものと言えるでしょう。
 
今後も広まっていけば

「なんだ、本願疑惑心があってもよかったんだ。やっぱりこのままのお救いなんだ、よかった!」

と誤解する人が、多数出てくると考えられます。

浄土真宗の教義を誤解させる説と言わざるを得ません。
 
浄土真宗者ならば、このような説を受け売りで安易に広めないでほしいところです。

 

分かりにくい間違い②

では2つ目の分かりにくい間違いを説明します。それは

「疑いが晴れたとは、疑いが破られたのではなく、疑いをまじえずにそのまま聞くことだと思う

というもの。

この説の何が問題かというと、疑いに2種類あることを理解していない点です。

前述したように、煩悩としての疑いと本願疑惑心とは別物です。

本願疑惑心は他力によって破られるものであり、凡夫の自力によって破ることはできません。

つまり「疑いをまじえずに」などと、凡夫側でコントロールできるものではないのです。

 

分かりにくい間違い③

さて、3つ目の分かりにくい間違いは「教義を曲げてしまうこと」です。教えを独自に解釈してしまうのですね。
 
例えば、

「他力とは大いなる力のことであり、それを阿弥陀仏や神と呼ぶのだ。そのことに気づいたのが他力信心だ」

とか、

「阿弥陀仏や法蔵菩薩というのは、人格的なものとして受け止める必要は無い。形而上的な働きそのものとして受け止めるのが正しい信心だ」

という人もいます。

ここまで読んできた人は分かると思いますが、これらは他力信心の定義とは違います。

教義を独自解釈しなければならないということは・・・仏願の生起本末を疑い無くそのまま聞くのではなく、自分が飲み込みやすいように教義を改変していることになります。

仏願の生起本末を疑い無くそのまま聞ける人ならば、わざわざ「他力とは大いなる力のこと」とか「阿弥陀仏や法蔵菩薩を形而上的な働きそのものとして受け止める」などと、教えを変える必要は無いのです。

* * *

このように自分の信心を何とか肯定しようとする人も多いのですが・・・。
 
教義と合わない自分の信心を無理やりに肯定しようとすれば、当然ですが、結局は教義の方を曲げないといけなくなります。

自己流に、つまり自分にとって都合の良いように解釈しないといけなくなるわけです。

「教義と自分の信心が合わない」という人は、注意してください。

教義と信心の有り様が合わないということは、親鸞聖人と同じ信心ではない、違う信心だということになります。
 
これは本当に致命的なことで、浄土真宗の聞法者としては、すぐに聴聞をやり直すべきです。

なぜなら他力信心こそが凡夫成仏のタネ(因)だからです。
 

* * *

ここまで分かりにくい間違いを見てきました。

次は、誤解を生み続けている言葉を紹介します。

 

 

誤解を生み続ける言葉「はからい」

時々、浄土真宗のお坊さんから「法話で何を話せばいいか分からない」という悩みを聞くことがあります。「話す内容も迷うし、相手がどう受け取ったか気になる」と。

「心がほっとするような話をすればいいのか?」とか「良いお話をありがとうございました、と言ってもらえる話をすればいいのか?」と考えて悩むようです。

しかし浄土真宗の法話においては、聴衆にウケるかどうかは二の次。

前述の香月院師のエピソードで、おその様以外の信者が置いてけぼりにされたことからも分かるように、正しく仏願の生起本末を説けば、聞ける人は聞ける教えなのです。

* * *

お坊さんの「法話で何を話せばいいか分からない」という悩みは、なぜ生まれるのでしょうか?

その理由は明らかで、そもそも「どんな法話をすればいいのか分からない」ということは、つまり「何を聞くべきなのか分かっていない」ということです。

ならば当然、たとえ悩み抜いて作った法話でも、ズレたものになる可能性が高いでしょう。

そういうお坊さんが陥りやすいのが、例えば「はからわずに聞けばいい」という耳障りのよい言葉を安易に使ってしまうこと。

みなさんの中にも、法話で「他力信心なんて難しいものじゃない、はからわずにそのまま本願を聞けばいいだけだ」という言葉を耳にしたことがある人もいるでしょう。

ここで軽く「はからわずに」とありますが、気をつけてください。

真宗でいう「はからい」とは、親鸞聖人が「自力のはからい」といわれたもので、「自力の御はからいにては真実の報土(極楽浄土)へ生まるべからざるなり」という言葉が残されています。

この自力のはからいとは獲信の障害になるものであり、その本質は「本願疑惑心」です。

しかし前述のような布教者の話を聞いて「そうか、はからわずに聞けばいいんだ」と、まるで凡夫の心がけ一つで他力信心決定の身になれるように誤解する人がいます。

凡夫の力では、自力のはからいは除けません。それは自分の目で自分の目を見ようとするようなもの。

あくまでも他力の働きかけによって、自力のはからいは除かれるのです。

なぜこんな間違いが起こるかというと、前述の説き方に問題があります。

真宗用語の「はからい(本願疑惑心)」が、日常用語の「はからい」にすり替わっているのです。

誤解させる説き方だと言わざるを得ません。

* * *

このような「はからうな」「そのままのお救いだ」という説き方のもう1つの問題点は、親鸞会などに「異安心だ」「間違った教えだ」という批判のきっかけを与えてしまうこと。

そして「はからわずに聞けばいいだけ」「そのままのお救い」といった説き方を続けていると、聴聞する理由も無くなり、以下のように親鸞会へ入会してしまう人々が出てくるわけです。

(※親鸞会のページです。くれぐれも入会しないようお気をつけください)
門徒総代になって20年、寺に人が寄りつかない理由が親鸞会に来て分かった|親鸞会
https://www.shinrankai.or.jp/s/kaiinkoe/2011/0714soudai20nen-tansoku.htm

真宗用語と日常用語の混同といった単純なミスですが、教えの上においては致命的だと私は考えます。

このような用語の間違いは、法話や仏教書で散見されます。

また他に「いのち」「目覚め」「宗教体験」など、定義があいまいで勘違いされやすい用語もあります。

ですが・・・この「はからい」は特に誤解をまねくものです。

聞法者のみなさま、ご注意ください。

* * *

「はからい」という言葉の誤用については、以上です。

次に「阿弥陀仏の本願を疑ったことが無い」という人へお伝えすべきことを書きます。

 

自分は疑ったことなど無い、と思っている人へ

先祖代々ずっと浄土真宗を信仰しているという人々から、よく

「今まで阿弥陀仏の本願を疑ったことなんてありません。こんな素晴らしいものを疑うなんてとんでもない」

という言葉を聞きます。

しかし香樹院徳龍師は以下のように教えられました。

『安心小話』禿義峰 著 国立国会図書館デジタルコレクション 22ページ目より)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819890

香樹院徳龍師の言葉

五二  香樹院師、越後吉田の同行に対せられ。その方はまだ無明の病が分からぬゆえ、聴聞で御助け引きつけて喜んで居るが、後生大事の思いで精出して聞き聞き念仏申すと無明の病が出てくる。その疑破って下さるるが御化導の御力じゃ。

人間は生まれた時は未信です。

そして自力で成仏できない私達は「本願疑惑心が除かれていないために、ずっと六道を輪廻し続けているのだ」と説かれます。

「こんな素晴らしい阿弥陀仏の本願、私は疑ったことなど無い」という人は、どうぞしっかり確認してください。

香樹院徳龍師から見れば、そういう人はまだ無明の病が出てきていないのです。

お寺に生まれ育った人、または先祖代々が浄土真宗だった家庭など・・・阿弥陀仏のお慈悲ばかりを聞かされてきた人は、要注意だと自覚してください。

 * * *

また香樹院徳龍師は、僧侶と同行(真宗の信者)に対して、以下の警句を残されています。

香樹院徳龍師の言葉

御声のままに  
或時の仰せに。きき分け知り分けた位で、極楽参りが出来るのなら、坊主は皆な御浄土に参られる。きき分け知り分けた位で、浄土へ参ろうと思うは、ひがごとじゃ、如来様の仰せばかりが、真実じゃぞよ。

坊主が一番駆けじゃ  
或る時右の僧に封せられ、一番がけに地獄に堕つるものは誰ぞ、汝知れりやとの仰せなりかしば、存じ申さずと答う。 坊主が一番がけに堕ち、その次は聞き分けた同行じゃぞ、と仰せありき。

聞き分けただけで(教義に詳しくなっただけで)極楽往生できるのではないぞ、ということです。

こういう思い込みはよくあることで、例えば「長年聴聞してきたから」「私はお坊さんだから」「子供の時から教えを聞いていたから」という理由で、なんとなく救われるような気持ちでいる人がいます。

しかし浄土真宗の教義からいえば、そのような考えは間違いです。

なぜなら阿弥陀仏の本願には「長年聴聞してきた人やお坊さんを優先して極楽往生させます」とか「子供の時から教えを聴聞していた人を先に救います」などとは誓われていないからです。

聴聞歴の長さが問題ではなく、本願疑惑心が除かれたかどうかが決め手なのです。

 

なぜこんなに間違いが多いのか?

ここまで読んできた人は「なぜこんなに多くの間違いが生まれるのか?」と、不思議に思ったかもしれません。

中には「獲信する人がとても少ないから、色んな誤解や間違いが生まれるのだ」と言う人もいます。

しかし成仏や輪廻の観点から考えれば、本願疑惑心の影響だとも言えるのです。

そうでなければ、優れた知性を持つ学者や僧侶が、なぜか教えの核心部分を間違って解釈してしまうことの説明がつきません。

これは学力や読解力の問題というよりも、本願疑惑心が目を曇らせているからだと考えられます。

今まで私達を迷わせてきた本願疑惑心がこれからも生き延びるためには、なんとか凡夫をだます必要があるからです。

学者や僧侶だけでなく、聞法者も教えを間違って解釈することがよくあります。

もしあなたの中から、

「長いこと法話を聞いているのだから、いつの間にか、自然と獲信したんだろう」

「妙好人ほど本願を喜ぶことはできないが、曖昧な他力信心もあるんだろう」

「自分の信心とお聖教に合わない部分があっても、大したことではない」

「お聖教を読んでもぴったりこない部分があるが、こういう領解や味わいもあるんだろう」

「ほら、あの有名な学者もこの人気のある僧侶も、疑いあるままで往生できると主張しているだろう」

という声が聞こえてきたら、それは単なる煩悩の怠け心だけではなく、本願疑惑心の影響なのかもしれません。

冷静に考えれば、上記の声はどれも筋が通っていません。

長く法話を聞いていれば獲信するわけではないし、自分の信心とお聖教が合わなければまだ未信だと考えられます。また有名な学者や僧侶の主張をもって、自分が他力信心を得たという証拠にすることはできません。

上記のような声に判断を鈍らされないよう、十分お気をつけください。

 

なお他力信心に対する間違いは、これまで形を変えて再生産されてきました。

今後もまた、新たな間違いが生まれては消えていくと予想されます。

*  *  *

さて、長々と間違いについて書きましたが、話を元に戻して、聴聞の心得について説明したいと思います。

 

 

聴聞の心得

では聴聞に対して、どのように向き合うべきなのでしょうか。

香樹院徳龍師は、なかなか本願疑惑心が晴れずに悩んでいた人に対して、次のように教えています。

香樹院徳龍師の言葉

おみのりを絶え間なく聞け。

これは法話を欠かさず聴聞しなさいということです。

昔であれば、お寺に歩いて行って聴聞したでしょう。

現代ではネットがありますので、必ずしもお寺に足を運ぶ必要はありません。

ネット上で正しく仏願の生起本末を説く法話を見つけ、聴聞するのもよいでしょう。

しかし法話が聞けない時もありますよね。そんな時はどうすればいいのかと質問されると、香樹院徳龍師は

香樹院徳龍師の言葉

「なんという愚かなことを言うぞ。法話のないときは、今まで聞いたことを思いおこして味わえ。法話を聞いているときだけが聞法ではないぞ」

と教えられました。

さらに、

香樹院徳龍師の言葉

「そなたは幸いにお聖教の読める目を持っているのだから、常にお聖教を拝見しなされ、それが聞法じゃ」

とも示されました。

そして最後に、

香樹院徳龍師の言葉

「またもし世間のことにかかわって、お聖教を拝見できないときには、口につねに南無阿弥陀仏と 称えなされ。これまた法を聞くことじゃ。このように心得て、志をはげましよくよく聞きなされ」

と言われました。

その時、質問者が

「法話を聞くこととお聖教を読むことが聞法になることは分かる。しかし、なぜ自分で念仏を称えることが聞法になるのですか?」

と言ったところ、香樹院徳龍は

香樹院徳龍師の言葉

何を言うか、わが称える念仏というものがどこにある。

称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を称えることができようか。

称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそも南無阿弥陀仏を如来さまは、何のためにご成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来さまのみこころを思えば、これがすなわち称えるままが、つねにご本願のみこころを聞くことになるのではないか。

と答えました。

さて、ここで香樹院徳龍師は

 1、法話を欠かさず聴聞せよ
 2、法話が無い時は思い出せ
 3、聖教を読め
 4、念仏をとなえよ、本願のみこころを聞け

と教えています。

1~3は読めば分かるように、法話があれば欠かさず聴聞して、法話が無い時は聴聞したことを思い出す。そして聖教(浄土真宗の教えを記した書物)を読むこと。

そして4、念仏をとなえよ、本願のみこころを聞けですが、世間ごとの用事で聖教も読めない時は「口に南無阿弥陀仏と称えなされ」とアドバイスしているわけです。

「念仏を称えることも聞法になる」とのことですが・・・なぜ念仏を称えることが聞法になるのか?

その理由は、煩悩まみれの凡夫からは念仏を称えようという殊勝な心は出てこないからだ、と香樹院徳龍師は述べています。

他力の働きかけによって、称えるはずのない南無阿弥陀仏を称えさせてもらっている。

では・・・阿弥陀仏は何のために私に念仏を称えさせているのか?

ここが最も大切なところです。

なぜ阿弥陀仏は南無阿弥陀仏を作る必要があったのか? そして今、なぜ私に南無阿弥陀仏を称えさせているのか?

親鸞聖人は他力信心の定義を「仏願の生起本末を聞いて疑いが無い」と教えて下さいました。

さきほどの香樹院徳龍師の「ご本願のみこころを聞く」とは、阿弥陀仏の本願が建てられた理由と意義を聞くということ。言い換えれば仏願の生起本末を聞くことです。

つまり「お念仏をとなえなさい、ご本願のみこころを聞きなさい(仏願の生起本末を聞きなさい)」ということを教えられたわけです。

仏願の生起本末を、ただのお話として聴聞するのではありません。

自分にかけられた願いの内容として聴聞してください。

あなたの日常生活で犯す罪は、全て仏願の生起となります。

あなたの口から出ている念仏は、仏願の本末につながるのです。

上の図のように、自分の思いにばかり注目するのではなく、そのような自分に対して阿弥陀仏はどんな願いをかけておられるのか・・・それを聴聞してください。

『ゼロからわかる浄土真宗』第7章に詳しく書きましたが、仏願の生起本末を、現実の自分の姿に当てはめて聞法していくのです。

 

法話のテーマは「仏願の生起本末」だけ

私が伝える法話のテーマは1つだけで、毎回「仏願の生起本末」の全体を話します。

ですので基本的に、同じ話を繰り返すことになります。

「同じ話ばかりではつまらない」という人もいるでしょう。

しかし、浄土真宗の根幹は仏願の生起本末にあります。

そして本願疑惑心を除かれた獲信者であれば、何度でも仏願の生起本末を聞くたびに喜ばせていただけます。

同じ話ばかりではつまらないと思う自分・・・その自分に対して、阿弥陀仏がどのような願いをかけておられるのかを聴聞していってください。

 

仏願の生起本末の全体を話す理由

浄土真宗の法話では、仏願の生起本末の全体を話されることは少なく、どこか一部分を掘り下げるものが多いです。

(※中には、成仏や本願疑惑心の観点が抜けている法話もあります。そういったものは浄土真宗の法話とは呼べませんので、ここでは除きます)

なぜ一部分かというと、仏願の生起本末を詳しく話そうと思えば、いくらでも細かくできるからです。

仏願の生起本末の内容は、罪悪・無常・因果・仏願といったように大きくテーマ分けすることができます。

法話者(僧侶)からすれば、それらのテーマを深く掘下げることができるわけです。

例えば罪悪で言うと、以下のページなどを引用して、私たちが犯している罪悪の残酷さを細かく知らせることもできるでしょう。

『もし人間と動物の立場が逆になったら?考えさせられる画像集』
http://www.vegworld.jp/blog/kiji/ningentodoubutsunotachiba/

また罪悪をテーマにした法話は、以下のようなものがあります。

久保光雲師 法話『感謝して食べれば罪にならない?』
https://youtu.be/bjJ87riuczw

このように1つのテーマを掘り下げることもできるのですが、前述した香月院師とおその様のエピソードから分かるように、仏願の生起本末は短く説くことも可能です。

極端に短くするならば、1分もかからずに話せますし、獲信者であればそれを疑い無く聞ける。

私の法話では、私のnoteとサイトを読んだ人であれば理解できる内容で、仏願の生起本末の全体を話します。

全体を通して聴聞することによって、あなたが引っかかっている点に気づくことができるでしょう。

そこで引っかかった部分をコメントで書き込んでください。

生起のところで引っかかるのか、本末に不審があるのか・・・それを確認してほしいと思います。

 

学問的に知りたいことがある人へ

浄土真宗の教えは多数の研究書が出されるほど難解です。例えば行信論(ぎょうしんろん)安心論題(あんじんろんだい)のように、教義を学問的に論じるものもあります。

ですが聴聞する人にとっては、難しい教義にまで精通する必要はありません。

仏願の生起本末、そして本願疑惑心について熟知おけば、ひとまず十分だと言えます。それらは『死ぬのが怖い人へ』と『ゼロからわかる浄土真宗』を読んだ人ならば、すでに理解している内容だと思います。

基本的に私の法話では、教義に関する質問は受け付けません。

もしさらに学問的に知りたいことがある人は、解説書を読んだり、教義に詳しい僧侶や仏教系大学の先生に質問することをおすすめします。

聴聞で重要なのは、知的に満足することではありません。

「知的に満足しようとする自分に対して、阿弥陀仏がどのような願いをかけておられるのか?」を聞いていくことが重要なのです。

 

ネット法座ではコメントに何を書くべきか

ネット法座の座談会などではコメントを受け付けます。聴聞した人は質問を書き込んでください。

何を書き込んでほしいかというと、聴聞している自分を観察していて見えてきた自己の姿です。

例えば、

 ・罪悪も輪廻も、心底からは信じられない
 ・阿弥陀仏の本願を信じられない
 ・念仏を称えても救われたとは思えない

など。これらはどれも仏願の生起です。

他人からはあなたの心の中は分かりません。他人から見えないところであなたが何をしているのか、それも分かりません。

世界中のどの本を開いても、あなたの姿は書いてありません。

阿弥陀仏の目から見てあなたはどのような姿なのか? それをあなた自身が確認していく必要があるのです。

もしも自力で輪廻を抜けられない姿が見えてきたら、それこそが仏願の生起であり、南無阿弥陀仏が作られた理由なのです。

質問を書くことで上記のような自己の姿に気づき、そんな自分に阿弥陀仏がかけておられる願い・・・これを聞くきっかけにして頂きたいと思います。

 

自分は未信だと思っている人へ

「自分は未信だ」と思っている人は、なぜそう思うのかをコメントで書いてみてください。

『死ぬのが怖い人へ』第8話で書きましたが、例えば

「阿弥陀仏の本願はおとぎ話としか思えない」
「だから私はまだ救われていないはずだ」

といった自分の思いにこだわっていると、堂々巡りになるばかり。

そうではなくて、自分の思いはいったん横に置いて「そういう思いを持っているあなたに、阿弥陀仏は何を誓っておられるのか?」ということを聞いていくのをおすすめします。

そのために私のネット法座では「視聴者は仏願の生起本末を聴聞しながら自分の思いを観察する → それをコメントで書き込む」という形にしているわけです。

これによって、いかに自分がこだわる必要の無いものを握りしめているのか、気づくきっかけになると考えられます。

また他の視聴者のコメントを読むことで、自分とは違う聞き方をしているなど、何か気づくことがあると思います。

* * *

このような疑問や不審は、自分の中で答えを出して終わりがちなものですが、未信のときは単純な聞き間違いも多いものです。

勇気を出して質問してみたら予想外の答えが返ってきた、ということもよくあります。

どうぞ気軽にコメントして頂きたいと思います。

 

聴聞する側の間違い

ところで、仏願の生起本末を正確に聴聞しているように思っても、時にはズレが生まれることもあります。

阿弥陀仏の本願は差別の無い救いですが、自分から条件を追加して本願を別のものに変えている場合がよくあるのです。

たとえば私も「いつ死んでも大丈夫と思えないから、まだ救われていないはずだ」と考えていた時期があります。

しかしこれは、聴聞においては、聞き間違いにつながるものでした(このような勘違いについては『死ぬのが怖い人へ』第8話を参照)。

「いつ死んでも大丈夫」というのは、獲信した人の味わいであり、他力信心を得た後に出てくるものです。

しかしそれに憧れるあまり、私は阿弥陀仏の本願を違うものにして聴聞していました。

つまり阿弥陀仏の本願を「いつ死んでも大丈夫と思える人しか救いません」という、条件つきのものとして聞いていたのです。

同じように

 ・聴聞しても救われた実感が無い人は救いません
 ・念仏しても救われた実感が無い人は救いません
 ・まだまだ生きられると思っている人は救いません
 ・ハンバーグや刺身を食べられる人は救いません
 ・自分が六道を迷っていると思えない人は救いません

など、色んな条件を追加したことがあります。

しかし「○○○でなければ救いません」という条件を、頭の中で勝手に加えていた当時の私は・・・正確に聴聞していたと言えるでしょうか?

「○○○でなければ救いません」という条件つき本願にしてしまうと、そうなれない自分は永遠に救われないことになります。

阿弥陀仏の救いの対象は十方衆生(生きとし生けるもの)なのに、これはおかしな話ですよね。

* * *

自分の思いを優先することは、仏願の生起本末を聴聞するのではなく、自分の思いを聴聞するようなものです。

そういう思いにとらわれたときは「阿弥陀仏の本願にはそんなことは本当に誓われているだろうか? そんな条件付きの本願だろうか?」と確認すると、見えてくるものがあります。

 

自分のお粗末さ=仏願の生起

「まだ救われた実感がないから」といった理由で、自分はまだ獲信していないと考える人もいます。

しかし、上記の

・聴聞しても救われた実感が無い
・念仏しても救われた実感が無い
・無常の教えは知っているが、まだまだ生きられると思っている
・罪悪の教えは知っているが、涙も流さずにハンバーグや刺身を食べられる
・罪悪や因果の教えを聴聞しているが、自分が六道を迷っているとは思えない

というのを、別の面から考えみてください。

このような人は仏教的に優れた素質を持っていないということです。

そして仏願の生起本末を自分の日常生活に当てはめて見ていくと・・・

六道を迷うとも思っていないからハンバーグや寿司や刺し身を食べられたり、無常の教えを聞いていながら「私は死なないはず」と考える自分もいたり・・・そういう自己の姿が見えてくると思います。

そういうお粗末な自分は、自力で輪廻を抜けて仏に成ることはできないでしょう。

しかし自力で成仏できない自分だからこそ、法蔵菩薩が代わりに仏道修行する必要があったのです。つまりお粗末な私の姿は、仏願の生起だということです。

阿弥陀仏の視点から私のお粗末さを見ると、仏願の生起であり、つまり仏願が建てられた理由となります。

法蔵菩薩が代わりに仏道修行されたのも、私のお粗末さのためです。

「聴聞しても念仏しても救われた実感が無い」「無常も罪悪も実感が無い」・・・そんな自分のために一体どんな願いがかけられているのか? これを聴聞していってください。

 

コメントを書くのが恥ずかしい人へ

中には「ネットでコメントを書くのは恥ずかしい」という人もいますが、香樹院徳龍師

香樹院徳龍師の言葉

迷いの凡夫が悟りの道知らぬのが、何で恥であろう。

「この年になって、今この疑いが出たの、誤りがあるのといえば、恥かしい」などという我慢はいらぬ。

商人が商法を知らず、女が裁縫を知らぬのなら、我が職分を知らぬのじゃが、迷いの凡夫が悟りの道知らぬのは当り前じゃもの。

どんなこと聞いても恥ではない。何でもかまわず聞くがよい。

と人々を励ましていました。

聴聞していて不審がある人、他力信心を得たと思っているけどイマイチ確信が持てない人など・・・。

どうぞ遠慮せずにコメントを書いてほしいと思います。

※ただし、どうしても無理だという人は、ツイッターのDMに下さっても結構です。

 

浄土真宗で聴聞しようと思っている人へ

聴聞には(たとえネット上で聴聞するにしても)時間がかかります。時間は命そのものですので、命を聴聞に使うという選択をすることになります。

強い意志をもって浄土真宗に足を踏み入れたものの、ずっと獲信できず、離れるに離れられない・・・という状態の人もいます。

昔から獲信する人は少なく、死ぬまでに獲信できるかどうか、何の保障もありません。

では・・・人生をかけた覚悟がなければ聴聞をしてはいけないか? というと、必ずしもそうではありません。

確かに妙好人の中には、物種吉兵衛さまのように家族を残して、捨て身の覚悟で聞法の旅に出た人もいます。

しかし逆に、何も知らずにたまたま法話を聴聞したのが縁で、短期間で獲信してしまったという人もいるのです。

全ては他力の働きかけですから、誰がどのような形で獲信するのか、凡夫の私たちには分かりません。

凡夫側の素質を問わない救いだということです。

他力の偉大さに思いを馳せるばかりです。

 

最後に

浄土真宗に興味を持った人は、聴聞していけば分かると思いますが、問題となってくるのは本願疑惑心(疑蓋)です。

阿弥陀仏の本願としては「念仏となえるものを極楽に生まれさせて仏に成らせる」と、すでに完成されています。

この本願を疑い無く聞ける身になることを獲信・信心決定・他力信心を獲得する・後生の夜明けをさせてもらうなどと言います。

* * *

本願疑惑心について教えているのは、私だけではありません。

例えば聞法者の間で有名なところでは、安心問答ブログがあります。

『安心問答(浄土真宗の信心について)』
https://anjinmondou.hatenablog.jp/

このブログは宮田秀成先生のもので、元々は親鸞会という新興団体に所属しておられました(※親鸞会についてはnote『死ぬのが怖い人へ』第4話を参照)。

しかし親鸞会の教義に疑問を持っていたため、脱会してから浄土真宗の正統な教義を学びなおされたそうです。

親鸞会出身ということで偏見を持つ人もいるようですが、中身を読めば教義に忠実に書いてあることが分かります。

安心問答ブログには本願疑惑心と取り組む聞法者が多数コメントしており、宮田先生がそれに答えておられます。

そのやり取りを読むだけでも、何か気づくことがあるかもしれません。

またブログのコメント欄に書き込めば回答してくださいます。

(ちなみにブログ記事は膨大にありますので、すでに真宗用語に親しんでいる人は、電子書籍にまとめられたこちらを読むのがいいかもしれません)

Kindle版 『ただ今救われて下さい 安心問答・浄土真宗の信心について』 (響流ブックレット)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00OV102DY

* * *

このような浄土真宗のブログやサイトは、探せば他にもあるかもしれませんし、これから増えていくと思います。

特に、親鸞会などの新興団体の教えに疑問を持ち、正しい教義を知りたいといって真面目に学ぶ人々がいます。

そういう人たちは、単なる学問的な興味ではなく、正統な教えとは何かを追求するケースが多いです。

浄土真宗にとって、彼らが大きな働きをする可能性も高い、と私は考えています。

* * *

長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。

あなたが仏願の生起本末を疑い無く聞く身になることを願っています。

ネット法座については、私のツイッターアカウントにて告知します。

Twitter久保龍雲
note『死ぬのが怖い人へ』
サイト『ゼロからわかる浄土真宗』